小田原攻めは秀吉陣営にかなりの士気低下が見られたり、家康らが離反するリスクもあったりで、じつはけっこうギリギリの勝利だったという話もありますね。
織田信長の勝率はそれほど高くはないのですが、なかでも手痛い敗戦のひとつがこの「金ヶ崎の戦い」ですね。
戦国屈指の謀将として知られる毛利元就が陶晴賢を破った「厳島の戦い」はその入念な準備と緻密な仕掛けから、榎本先生はその謀略の最高傑作と解説しています。
「桶狭間の戦い」については諸説ありますが、織田信長が圧倒的不利な状況にもかかわらず今川義元に勝利したということは事実です。その要因となったのが事前の準備とリアルタイムな情報分析にあるというのは現代にも通じる話ですね。
この秋に特別公開されたり、ライトアップが予定されている寺院のうち、歴史好き・戦国武将好きのみなさんが気になるだろうところを独断と偏見でピックアップしました!
徳川家康にとって「大坂の陣」は「関ヶ原の戦い」以上に盤石な体制と準備でのぞんだものの、薄氷を踏む思いでの勝利でした。
「関ヶ原の戦い」は戦国時代を象徴する合戦でありながら、わずか数時間で終了したという点でいろいろと疑問点も多い合戦ですね。
大河ドラマ「真田丸」の主人公として広く世間に知られるようになった真田信繁ですが、どんなに有能であっても肩書きがなければ軽視されるのは現代と同じですね。
御城印集めの魅力についてより深く知るために、日々精力的に御城印の情報収集をされているshoさんにお話を伺いました。
上杉家の家老として知られる直江兼続は内政・軍事ともにオールマイティな軍師でした。
江戸時代初期、徳川家康の側近として朝廷政策・宗教政策に深く関与した南光坊天海は出自が不明で、足利将軍の落胤説や明智光秀の生き残り説などいろいろあります。
真言宗の僧である応其は、豊臣秀吉の外交交渉を担当する使僧として島津氏との和睦交渉などに尽力し、さらに高野山の再興にあたりました。
川田義朗は島津義久の軍配者として、「耳川の戦い」など数々の戦の勝ち鬨を上げる奏者をつとめた人物です。
太田道灌というと「享徳の乱」や「長尾景春の乱」で八面六臂の活躍をしたので軍事の天才の印象が強いですが、それだけでなく学者としても一流だったようですね。
朝倉氏を60年にわたって支えつづけたのが朝倉宗滴です。彼がいたからこそ朝倉氏は他国に恐れられる存在になれたのですが、その眼力は織田信長の器量をいち早く見抜いていたともいわれています。