島津はそもそも東軍として参加するはずだったんですけどね。流れに翻弄されながらも必死に抵抗した結果が敵中突破である「退き口」だったのかもしれません。
大政奉還というと教科書によくある有名な「大政奉還図」を思い浮かべる方も多いと思いますが、あの絵にはまちがってるところがあるってご存知でした?
「関ヶ原の合戦」が数時間で終わらなければ、数か月から数年は全国各地が戦乱に巻き込まれたでしょうね。
秀忠遅参については本隊を温存したかった説とか、意図的だったという話もあるようですが、真田昌幸がこれによって名を上げたことはまちがいないですね。
直江兼続が家康に出したという「直江状」ですが原本は現存していません。写本しか残っておらず、しかも内容が一致していないということから創作の可能性も指摘されてますね。
伊達政宗の遅参(と白装束を着ての謝罪)についてはドラマチックではあるのですが、よく許されたもんだなあと。
伊達政宗の「撫で切り」には批判も多かったようですが、これをやってなかったら奥州統一はもっと苦戦していたかもしれませんね。
戦国時代、下剋上によって多くの大名が誕生し躍進する一方で、没落し滅亡する大名もたくさんいたわけですが、尼子氏の最後はほんとうに時代に翻弄された感じが強いですね。
信長の首があれば状況が変わっていた(味方する武将も多かった)はずという説もありますが、どうなんでしょうね。
「本能寺の変」の謎は明智光秀の犯行動機よりも、なぜ信長と信忠が同時にわずかな兵で京に滞在していたかですよね。まあだからこそ光秀は千載一遇の好機と見たわけでしょうけど。
小牧・長久手の戦いは、家康の戦術的勝利、秀吉の戦略的勝利といった評価がされることが多いのですが、根来衆や雑賀衆のほか、長宗我部元親や北条氏直を味方につけていた連合軍側にも戦略的勝利のチャンスはけっこうあったと思うんですけどね。
織田信長の勢力拡大ペースって序盤の尾張統一から美濃攻略あたりまではかなり時間がかかっていますよね。
「川中島の戦い」って激戦のイメージがありますが、そのほとんどはにらみあいだったそうですね。約12年におよぶこの合戦は山本勘助や武田信繁などの戦死者を出しながらも、武田信玄は着実に北信濃を征服していきました。
「手取川の戦い」は1万ちょいの軍勢の謙信が約5万の織田軍に圧勝したため「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」という落首が残されているのですが、信長は参戦していないのでちょっとかわいそう。
織田信広は安祥城を任されるだけでなく、「第二次小豆坂の戦い」では先鋒をつとめるなど有能な武将なんですよね。