攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【歴代征夷大将軍総覧】坂上田村麻呂――あまたの伝説に名を残す、武士の象徴 758年~811年

征夷大将軍の象徴として知られる坂上田村麻呂はその功績もさることながら、多くの伝説が残っています。その死後は信仰の対象となり「王城鎮護」や「平安京の守護神」など最大級の賛辞を送られています。

バカバカしいけどおもしろい、もしもYahoo!ニュースで「本能寺の変」が紹介されたら

もし戦国時代にYahoo!ニュースが存在していたら「本能寺の変」をどんなふうに伝えたかという妄想記事なのですが、これがじつにおもしろかったのご紹介します!

【歴代征夷大将軍総覧】大伴弟麻呂――名門出身の「最初の将軍」 731年(722年とも)~809年

最初の征夷大将軍である大伴弟麻呂が何を成し遂げたのか、そしてなぜ彼が選ばれたのかについて紹介します。平安京へ遷都した桓武天皇の時代の話なんですね。

明智光秀と榎本秋――あるいは麒麟は来たのか(「麒麟がくる」と過ごした一年を振り返り)

一年あまりの連載を振り返って、榎本先生にコメントをいただきました。大河ドラマ「麒麟がくる」そしてこの連載を楽しんでいただけましたか?

明智光秀と森蘭丸――あるいは本能寺の変という終わり

信長の小姓として「本能寺の変」で運命をともにした森乱丸ですが、障子を信長に閉めてくるように命じられた際に(信長に恥をかかせぬよう)閉まっていた障子をいったん開けてから、音を立てて閉めるなど、度を超えた忠実ぶりを発揮した逸話が残っています。

【歴代征夷大将軍総覧】古代の将軍たち

史料に見える最初の征夷大将軍は大伴弟麻呂です。彼の部下が有名な坂上田村麻呂なのですが、今回は征夷大将軍という役職が生まれた経緯について紹介します。

明智光秀と誠仁親王――あるいは「本能寺の変」の当事者

誠仁親王は正親町天皇の第一皇子です。信長が自らの居館としていた二条新御所を譲られ居住していたのですが、本能寺の変の際にはこの館に信忠が立て籠もったため、巻き込まれることになります。非常時とは言え、親王の邸宅に押し入っちゃえるほど織田家の権…

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

大和国における二大勢力に挟まれた柳生氏は境界大名と呼ぶにはあまりに少勢力ですが、徳川家康から秀忠、家光と三代にわたり重用された柳生宗矩のときに大和柳生藩1万2500石の大名にまで出世しています。 剣豪と呼ばれた人物の中で大名にまで出世したのは宗…

【戦国時代の境界大名】松浦氏――海外との窓口ゆえに苦しむも……

松浦党とも呼ばれた海賊は戦国大名・松浦氏となっていきます。実利主義的だった松浦氏はほかのキリシタン大名と異なり、キリスト教に興味はなく南蛮貿易の旨味だけを求めたのですが、これにより領内の仏教勢力との対立が生じてしまいました。

明智光秀と荒木村重――あるいは「織田を見限った男」たち?

明智光秀より早く、信長に謀反を起こしたのは松永久秀だけではありません。 摂津・有岡城の荒木村重もそのひとりです。光秀の長女(お岸)が村重の息子・村次に嫁いでいたので、以前光秀が寝込んだ際に駆けつけたときも「荒木の父上が許してくれた」と話して…

【戦国時代の境界大名】宗氏――朝鮮半島との交渉・貿易を独占した一族

宋氏はいわば日本と朝鮮の境界大名でした。とくに秀吉から無理難題を突きつけられた際は国書を改ざんしてまで関係を取り繕おうとしたのですが、のちにそのことが露見して対馬藩は最大の危機を迎えます。

【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く

信濃守護をつとめた名門・小笠原家ですが、武田信玄によって所領を奪われると各地を転々として再興を目指します。「天正壬午の乱」の混乱期に徳川家の支援を受けて旧領を奪還するのですが、その後も紆余曲折があったようです。

【戦国時代の境界大名】伊東氏――二大勢力との死闘で滅亡するも……

伊東氏は大友氏と島津氏に挟まれた典型的な境界大名でした。島津氏に攻められ一時は領土を失っていましたが、秀吉に仕えることで旧領の回復に成功します。しかし幕末では再び島津氏の圧力を受けて新政府側につきました。

【戦国時代の境界大名】遠山氏――宗家は滅亡後、残された一族による戦いの結末は?

織田氏と武田氏にはさまれた境界大名・遠山氏でしたが、宗家が滅んだのちは分家である苗木遠山氏が今度は信長の後継者となった秀吉と家康の間でむずかしい対応を迫られます。結果として居城である苗木城を失った遠山氏ですが、関ヶ原の戦いにおいて居城を奪…

【戦国時代の境界大名】大村氏――初のキリシタン大名家として、せめぎ合いのなかで生き残る

日本初のキリシタン大名・大村純忠はもとは有馬氏から送り込まれた養子でしたが、有馬氏を見限って龍造寺氏に降伏するなど独立した道を歩むことになります。長崎の発展は大村氏が境界大名だったことにも大きく関係しているんですね。

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