後醍醐天皇の第一皇子である護良親王は鎌倉幕府打倒に貢献し、またその後も征夷大将軍として足利尊氏と対立した人物です。しかしエゴが強すぎたのか、最後には父である後醍醐天皇にも見限られ、足利直義によって殺されました。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇がおこなった建武の新政はすぐに瓦解します。その後は南北朝時代に突入するわけですが、公家幕府とも呼ばれる南朝にも征夷大将軍がいたのです。
鎌倉幕府最後の将軍を即答できる人は少ないと思いますが、この守邦親王は幕府滅亡を目の当たりにすることとなった将軍です。倒幕運動の際に後醍醐天皇の皇子・護良親王が発した令旨では討伐の対象が北条高時とされており、将軍でありながら無視されたほど存…
8代将軍となった久明親王は兄が伏見天皇として即位した翌年に将軍に就任しました。「大覚寺統」と「持明院統」の対立の中での就任でしたが、彼もまた北条得宗家の傀儡でしかありませんでした。
源頼朝をのぞけば最長の在任期間を誇る7代将軍・惟康親王ですが、彼が何かを成し遂げたという記録はほとんどありません。 それだけ傀儡だったということなのでしょうが、彼の在任期間に起きたのが教科書にも出てくる二度にわたる「元寇」です。
天皇の子、すなわち親王が征夷大将軍に就いていたと聞いて驚いた方もいるのではないでしょうか。しかし鎌倉幕府の6代将軍である宗尊親王はまぎれもなく後嵯峨天皇の第1皇子でした。
政局に翻弄される人物は古今東西大勢いますが、わずか6歳での将軍就任、そして14歳で将軍職を解任され、18歳でこの世を去った藤原頼嗣ほど悲哀に満ちた人物はそうはいないでしょう。
幕府の実権を握った北条氏にとって、神輿に過ぎない将軍は権威さえ利用できればそれでいいと考えたようです。そのような状況で将軍に就任したのが藤原頼経で、彼は摂家であるとともに源氏の血を引くうってつけの人材でした。
源氏将軍が断絶すると、幕府は摂家である藤原家、さらには天皇家から将軍として迎えます。独裁的な権力を握った北条家がなぜ自ら将軍になろうとしなかったのかについて、最後にふたつの説を紹介しています。
兄・頼家に代わって3代将軍となったのが源実朝です。歌人として才能を発揮した実朝でしたが、頼家の子に襲われ命を落とします。源頼朝が開いた鎌倉幕府ですが、源氏将軍は頼朝の息子2人の代で断絶することになります。
比企氏と北条氏の対立に巻き込まれ、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で取り上げられる十三人の合議制が誕生するきっかけとなったのが源頼家です。18歳で家督を継ぎ、21歳で征夷大将軍に就任、そして23歳で死に追いやられた悲運の将軍です。
征夷大将軍の代名詞とも言える人物が源頼朝ですが、やはり幕府を開いただけあって武家でありながら政治的手腕が高かったようです。ただその死因についてはどうにもはっきりしていないのです。
源義仲(木曽義仲)は源頼朝のいとこにあたります。義仲は戦術家として兵を指揮する能力だけでなく、局面を有利に展開する戦略家としてもすぐれた人物でしたが、京から離れて生まれ育ったこともあり、朝廷との関係を構築することはできなかったようです。
歴史上、いったんは姿を消した征夷大将軍がふたたび世に現れたのは鎌倉時代の源義仲、源頼朝になります。とくに頼朝は朝廷と距離をおいた政権運営をするために将軍の持つ特権がちょうどよかったと言えます。
東の平将門、西の藤原純友を征伐するために将軍職についたのが藤原忠文です。しかし就任時には68歳だった忠文は鎮圧には成功したものの、とくに功績はなかったともいわれています。