家慶の子である家定は「癇癖将軍」と呼ばれるほど、不安定な将軍で、幕末の混乱を乗り切れる器ではありませんでした。 料理が趣味で、平和な時代ならまたちがった評価だったのかもしれませんね。
徳川家慶は歴代将軍の中でもリーダーシップを発揮できなかった人ですが、この動乱期に将軍職についたこと自体がとても不運だったのでしょう。 江戸幕府にとって最大の危機といえるのが彼の時代に起きたペリー来航です。
子だくさんでオットセイ将軍の異名を持つ11代将軍・徳川家斉は、在職期間50年と歴代の征夷大将軍の中でも最長記録保持者でもあります。 また秀忠以来となる太政大臣への昇任など記録ずくめの将軍でした。
幼少の頃より期待された徳川家治でしたが、自身は将軍として幕政を主導することはなく、むしろ田沼意次に一任しています。本人が優秀だったがゆえに、有能な家臣に任せることを選んだのかもしれませんね。
吉宗の子である9代将軍・徳川家重は身体が弱く、また言語不明瞭だったそうです。しかし大岡忠光や田沼意次を発掘、抜擢するなど、知能は正常でむしろ聡明だったとも考えられます。 なお家重には女性説もあるようですね。
TVドラマ「暴れん坊将軍」のモデルとなった徳川吉宗の評価は名君とも、経済オンチとも言われますが、足高の制や大奥改革などのエピソードを見るかぎり、やはり有能な側面はあったのだろうと思います。
家宣の子として7代将軍に就任したのが徳川家継です。3歳での就任は歴代最年少でしたが、わずか8歳で亡くなってしまい、これによって徳川宗家が断絶し、御三家から新将軍を迎えることになります。
優秀さの片鱗を見せつつも、わずか数年で病没してしまったのが徳川家宣です。生真面目で礼儀正しい家宣は前将軍・綱吉の「生類憐みの令」を民のために廃止しつつも、自分は守ると綱吉の棺に話しかけたといいます。
最上義光が山形城に瓦葺きの本丸御殿を築いた理由について、いちなんさんがその考察を寄稿してくださいました。
徳川綱吉による「生類憐みの令」は犬などの動物だけでなく、人間もその対象でした。天下の悪法として綱吉の死後に廃止されましたが、捨て子や病人の保護などはその後も継続しているようにすべてが拒絶されたわけではなかったのです。
家光の晩年の子である家綱は、いわゆる大御所を置かず、若くして将軍に就任しています。彼の時代に起きた由井正雪の乱と明暦の大火というふたつの出来事は幕府の方針や江戸の町づくりに大きな影響を与えました。
「生まれながらの将軍」である3代・家光は唯一、将軍の正室の子として将軍職をついだ例でもあります。彼が将軍の時代は幕府の財力も豊富であったため、かなり強い権力を誇示することができました。
秀忠は「関ヶ原の戦い」での遅参を理由に評価が低くなりがちですが、江戸幕府が265年におよぶ長期政権として成立したのは秀忠の貢献が大きいのも事実です。
決して順風満帆とは言えなかった生い立ちですが、人質として、同盟相手として、家臣として、常に近くにいる有力者に必要とされたのが徳川家康です。 信長・秀吉はもちろん、幕府を開く際には室町幕府のしきたりを取り入れるなど、過去から多くのことを学んだ…
征夷大将軍をめぐる旅もついに江戸幕府へとたどり着きました。明日からは徳川家の歴代将軍を紹介していきますが、まずはざっくりと江戸時代について俯瞰してみましょう。