近年では戦国時代を締めくくったのが大坂の陣を言われていますが、これがクーデターかはさておき(単純に大勢力が少勢力を滅亡させたとも言える)歴史的には大きな出来事ですね。
たしかに関ヶ原の戦いも徳川家康によるクーデターと捉えることができるかもしれませんね。 もっとも西軍の総大将は毛利輝元なので家康と石田三成で書状の比較をするのは正しくないかも。とはいえ福島正則や加藤清正などは反三成のために東軍についてますしね…
おそらく日本でもっとも有名なクーデターがこの本能寺の変でしょう。 明智光秀が謀反を起こした理由はわかりませんが、織田信長だけでなくすでに家督を譲られていた嫡男・信忠も同時に京に滞在していたのはまさに千載一遇のチャンスでした。
近年、戦国時代の幕開けとなったのはこの「明応の政変」ではないかと言われています。 家臣によって将軍が勝手に交代させられるという文字通りのクーデターは将軍権威の失墜を決定的なものとさせました。
失墜した幕府の権威を回復するために9代将軍・足利義尚が取った行動は反抗的な守護大名への武力による征伐(鈎の陣)でした。攻撃対象となったのは近江守護・六角高頼でしたが、義尚は京に戻ることなく早逝します。 第二次六角征伐は10代将軍・足利義材によ…
2021年8月末に結果発表した全国入城者数ランキングについて、その後に熊本城の数字が判明したこともあり、補足動画を公開しました。
応仁の乱のきっかけともいえる畠山氏の家督争い、すなわち畠山政長と畠山義就の戦いは長期化し、多くの農民が苦しんでいました。 そこで農民たちは一揆を結成すると、両陣営を立ち退かせることに成功したのです。
9代将軍の座をめぐり、兄・義政から将軍就任を約束されていた義視と、せっかく生まれた我が子を将軍にしたい日野富子らが対立した結果、起きたのが文正の政変です。 富子に味方した政所執事・伊勢貞親らが追放されることになりましたが、この火種がのちの応…
日本という国の領域は時代によって変化しますが、東北からさらに北上して北海道に進出がはじまったのが室町時代だそうです。 当然、先住民であるアイヌ人との交流や摩擦が生まれるわけで、最終的には武力衝突となってしまいました。
関東における鎌倉公方と関東管領の対立は収まらず、京の幕府はこれを収拾するために時の将軍・足利義政の弟、足利政知を新公方として送り込むのですが、事態はさらに悪化していくのです。
もうひとつの嘉吉の変がこの禁闕(きんけつ)の変です。足利義満に約束を保護にされた南朝方の残党が三種の神器を奪いに御所を襲撃するという事件でした。
「嘉吉の徳政一揆」とも呼ばれるように土一揆は基本的に徳政一揆でした。 比叡山との関係の強さは暗殺された6代将軍・足利義教が将軍就任前は比叡山延暦寺のトップである天台座主だったことからもわかりますね。
足利義教は多くの有力守護大名の家督相続に介入し、また粛清もしたため「万人恐怖」と呼ばれました。その義教が赤松満祐によって暗殺された際も「自業自得」と記録されたことから当時の人たちにとってもよほどの異端児だったのでしょうね。
鎌倉公方・足利持氏は幕府軍に敗れたものの、そのまま関東が幕府の支配下におさまることに不満をいただいた勢力が蜂起したのが結城合戦です。結城氏朝が遺児を担いで反旗を翻しましたが、幕府軍に討伐されました。
関東に支配権を延ばそうとする幕府(将軍・義教)と鎌倉公方・足利持氏が衝突するのは自然なことでしたが、持氏としてはくじ引きで選ぶくらいなら自分を将軍職にと思うのも当然でしょうね。 結果として関東ではこのあとも戦国時代に入るまで混乱がつづきます…