攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【戦国軍師入門】朝倉教景――犬畜生と蔑まれても勝ちが大事

伊達政宗しかり戦国大名の家では先祖と同じ名前をつけることは珍しくないのですが、朝倉家は孝景も教景も複数います。教景にいたっては判明しているだけで5人が名乗っており、しかも3人は歴代当主です。襲名に近いのでしょうか。 なお近年の研究によると「朝…

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

活躍だけ見れば、息子の昌幸、孫の幸村よりも華々しいのが真田幸隆です。調略に長け、多くの城を攻め落とした点では羽柴秀吉に近いイメージがあります。

【戦国軍師入門】山本勘助――すべてが謎に満ちたオカルト軍師

NHK大河ドラマの主人公にもなり、またほかの作品にも多数登場していることからてっきり実在がたしかな軍師だと思っていた方も多いでしょうが(ぼくも最近までそうでした)いまなお山本勘助が実在していたか、実在していたとして名軍師だったのかはよくわかっ…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

逸話で聞く太原雪斎はほんとうにスーパーマンですよね。外交面ではタフネゴシエーターであり、軍事面では戦略家と八面六臂の活躍を見せつつ、さらに教育者でもあるのですからほんとうにすごい。

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

真田幸村ははたして軍師なのか――という問いは大河ドラマ「真田丸」をご覧になった方にとっても興味深いのではないでしょうか。じっさいには軍師的な役割を任せてもらえなかったわけで、父親である真田昌幸の影響が強いのかもしれませんね。

【戦国軍師入門】石垣原の戦い――黒田官兵衛、最後の賭け

大友義統が杵築城を攻めたとき、城を守ったのが細川家の家老、松井康之でした。黒田如水は救援に駆けつけ石垣原の戦いに勝利すると、その翌日からまた進撃を開始して豊後国を平定するのですが、ほんとうに天下を狙っていたのかは不明で、おそらくは俗説のよ…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

関ヶ原の戦いは各大名家お抱えの名軍師たちの競演でもありました。またその軍師たちを指揮して自軍に有利な状況をつくった徳川家康の戦略家としての凄みも実感します。 ちなみにメッケル少佐が「西軍の勝ち」と言ったというのは司馬遼太郎の話らしいので、お…

【戦国軍師入門】人取橋の合戦――槍の功でも主君を救った軍師

当時は写真があるわけではないので伊達政宗の顔を知らない兵が大半でしょうけどそんなに簡単にだまされるのでしょうか。片倉小十郎は政宗より10歳も年上なので、違和感はあると思うんですけどね。 あと人取橋の合戦というと、いかりや長介さんの鬼庭左月斎を…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

秀吉による四国征伐において大活躍したのが黒田官兵衛でした。彼は大軍である利点を最大に生かして、兵力をむやみに分散せず、攻めるべき城も選んで、わずか3か月ほどで長宗我部元親を降伏させることに成功します。

【戦国軍師入門】沖田畷の戦い――功績甚大の軍師を疎んじた結末

軍師の助言を聞き入れなかったから負けたというのはあくまでも結果論でしかないのですが(無視して勝った例もあるわけで)おごった当主が周囲から愛想を尽かされ身を滅ぼすのは世の常ですね。

【戦国軍師入門】今山の戦い――奇襲を成功させ、会心の勝利

当時、鍋島直茂はまだ「信生」を名乗っていましたが、この勝利を記念して信生は鍋島家の家紋を剣花菱から大友家の杏葉に替えたそうです。なおこの戦い後も大友氏が軍勢動員の触れを隆信に送るなど、従属関係は完全に解消されることなく一部維持されたようで…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

黒田官兵衛が信長に臣従するために謁見したのが1575年(天正3年)7月、その4年後の1579年(天正7年)6月13日に竹中半兵衛は陣中で亡くなってます。しかしこの間の1578年(天正6年)10月から一年間、官兵衛は有岡城に幽閉されていたため、たしかにふたりが秀…

【戦国軍師入門】耳川の戦い――受け入れられなかった主君への進言

角隈石宗は通好みの戦国武将ですよね。軍師というより、本来の「軍配者」の代表とも言えますが、この耳川の戦いに出陣する際に死を覚悟して自身の書いた兵法書をすべて焼き払ってしまったのがもったいないです。

【戦国軍師入門】稲葉山城乗っ取り――軍師・半兵衛、鮮やかなデビュー

竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取りのエピソードが事実なら、なぜ信長は2千程度しか守備兵がいないこのチャンスに軍事行動をおこさなかったんでしょうね。この半年間は美濃攻めの好機だったと思うのですが。

【戦国軍師入門】北九州をめぐる戦い――小早川隆景・立花道雪の激突

なぜ毛利氏が京のある東ではなく西へ侵攻したかというと博多がほしかったようです。 小早川隆景と立花道雪の対決という戦国ファンなら心躍るカードですが、ふたりは20歳ほど離れています。もっとも毛利元就は道雪よりさらに16歳ほど上なのですが。 あと多々…

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