圧倒的なボリュームなので2回にわけての掲載となりましたが、京都御城印サミット2日目のレポートです。
2日間にわたりぼくといっしょに司会をつとめてくれた細川玉子さんに京都御城印サミットのレポートを書いていただきました。まずは初日のレポートをご覧ください!
上杉謙信や武田信玄などそもそも出家後の法名(法名)で知られる戦国武将も多いですが、徳川家康が複数の宗教を信仰していたことはご存知でしょうか。江戸のまちづくりにおいても鬼門と裏鬼門の位置に寛永寺(天台宗)と増上寺(浄土宗)を建てたそうです。
武茂城のガイドツアーが開催されました。このツアー参加者に配布する御城印を攻城団が製作したのですが、ツアーも御城印も大変好評だったようです。 那珂川町観光協会の山口さんにレポートを書いていただきましたのでぜひお読みください。
戦国武将には鷹狩が好きな人が多いですが、家康は子どもの頃から鷹狩りが大好きで今川氏親の菩提寺でやろうとして怒られたこともあるとか。軍事訓練説よりも天皇や貴族の趣味に武士が憧れたという説のほうが説得力はありそうですね。
浜松城はもともと曳馬(引馬)城という名前で、これは縁起が悪いという理由で改名した説があるのですが、だったら今川時代になぜ改名しなかったのかがわからないんですよね。ただほかに例はあるのかと言うと、信長が生まれたとされる勝幡城も同様だそうです。
細川竜太郎さんに姫路城の攻城ブログを寄稿していただきました。
いまとなっては「神君」の苗字として唯一無二の存在である「徳川」姓ですが、どうして家康が姓を変える必要があったのかをさぐっていくと、どうやら一族や家臣団を統制していくうえでの権威づけが目的だったようです。
源氏でなければ征夷大将軍になれない、なんてことはないのですが、徳川家康の祖父である松平清康(あるいはそれ以前)から源氏を名乗っていたようです。ただその確たる証拠は家康自身も見つけられなかったようです。
「城もなか」を求めて全国を飛び回る城葱さんが今回向かったのは小山田城(町田市)と大庭城(藤沢市)。小田急でめぐる城もなかの旅ですね。おいしそうな写真とあわせてじっくり楽しんでください!!
現在、京都市考古資料館で開催中の特別展示「THE 金箔瓦」を見てきました。写真をいっぱい撮ってきたのでおすそわけ(でも瓦の質感は自分の目で見てもらいたいです)。
たかまる。さんの短期集中連載「家康の合戦」の最終回を記念して、徳川家康の合戦をテーマに榎本先生を交えて3人でトーク番組を生配信しました。
主君から一字もらったり、あるいは苗字の使用を許されたりと戦国武将はいろんな事情で名前を変えています。徳川家康も今川義元から偏諱を賜り「松平元信」と名乗るなど何度か名前を変更しました。
家康の最晩年におこなわれた合戦が「大坂の陣」です。豊臣一族を滅ぼしたいというよりはおそらく関白家としての豊臣家を羽柴家に戻し、いち大名として臣従させたかったんでしょうけど、うまくいかないものですね。
元康の「元」の字は今川義元から与えられた偏諱ですが、家康の「家」の字はどこ由来なのか。じつはいろんな説があるものの、じっさいのところよくわからないそうです。