榎本秋の「家康の謎」

榎本秋先生によるNHK大河ドラマ「どうする家康」をより深く楽しむためのコラムです。
この連載では毎週ひとつずつ、徳川家康にまつわる疑問に答えていただきます。最新の研究により定説が修正されていることもありますので(大河ドラマではどの説が採用されるかはさておき)、知識のアップデートや、新たな知識を得るために楽しく読んでください。
人質時代の信長との縁もあり、今川家を見限って織田についたとされる通説は近年否定されているそうです。岡崎城に入った元康は織田方と戦っており、今川からの離反も援軍が期待できず安全保障が履行されなかったためと考えられています。
ドラマでも大変さが伝わりましたが、兵糧や小荷駄隊を守りながら敵中突破するというのはかなり難易度の高いミッションでした。ちなみに援軍が迫るなか前日に兵糧を入れる意味は薄いので前年ではないかという説があったり、これは米ではなく弾薬だったのでは…
家康(当時は竹千代)が駿府に連れて行かれた時点で、すでに父親の広忠は亡くなっていたので、当主自ら人質というのもおかしな話だと思います。義元は三河統治のために幼年の当主を庇護・後見し、今川一門に迎えて英才教育を施そうとしたと考えたほうが自然…
家康の生母、於大の方は実家である水野家のために人生を捧げた人です。この時代の女性によくある政略結婚で松平広忠に嫁ぎ、実家の事情で離縁されたあとは再び久松長家(俊勝)に嫁ぎます。家康の「家」の字はこの継父である長家から得たという説もあるそう…
家康の祖父、父はいずれも若くして亡くなっています。織田と今川にはさまれた小さな国衆である松平氏は一族内の闘いもあり、広忠も10歳で家督を継いだために三河を追われてしまったそうです。この状況を救ってくれたのが今川義元なので、徳川家にとっての義…
徳川家康の幼少期、まだ竹千代と呼ばれていた時代に織田家で人質生活を送っていたことはよく知られています。ただ当初今川家へ送られるはずが、家臣の裏切りで織田家へ売り渡されたといったエピソードは近年の研究で否定されています。