攻城団ブログ

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榎本秋の「殿様の左遷栄転物語」

この連載は『殿様の左遷栄転物語』(朝日新書)をベースに、ウェブ連載用に一部修正したものです。

人事――それは組織人にとって、永遠の関心事に他なりません。
組織の構成員の立場から考えましても、どんな地位につけられるか、どんな待遇を与えられるかは組織人としての将来が決まる大問題です。また、功績に対してふさわしい人事がなければ仕事へのモチベーションを維持するのも難しく、これは組織の側の視点から見ても望ましいものではありません。作業効率がどうしても下がってしまいますからね。

にもかかわらず、しばしば人事は本人の能力や積み上げてきた成果とは別の要素で決まりがちです。たとえば、内部の派閥闘争や外部の組織との関係や圧力によって左右されることが珍しくないのです。
しかし、原因が自分にあるにせよ、ほかにあるにせよ、リストラ――日本的な「首切り」の意味ではなく、本来のリストラクチャー、「再構築」の意味――の嵐が巻き起こった際に、ただ天命を待つようではいけません。それまでに構築していたコネクションを駆使し、新しいつながりを求め、上位者に好かれそうな要素を用意し、逆に目をつけられそうな悪い要素はなるべく切り捨てて(これがまた新しい被害者を生んだりもするわけですが)、涙ぐましいまでの生き残り運動を展開しなければなりません。

その姿を特に明確な形で見せてくれるのが、江戸時代の大名たちです。特に関ヶ原の戦いによる豊臣政権の実質的な消滅と徳川家による江戸幕府の誕生――天下人の交代を受けて到来した「人事異動の大波」は、さまざまな場所で大小の悲喜劇を生み出しました。
この未曾有の事態に対して、如何に生き残るか? それは非常に魅力的なドラマにほかならないし、また現代社会に生きて人事に悩まされる私たちにとっても、重大なヒントに満ちているのです。もちろん、江戸時代初期の激動を乗り越えた後も、人事にまつわる興味深いエピソードは多数存在します。そこで本連載では、そのうちいくつかのポイントに注目しつつ、「如何に生き残るか」というテーマに迫っていくことを目的としています。

といっても漫然と紹介するだけでは面白くなりませんので、5つのポイントに基づいて章分けをしました。
第1章では、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦い――の、「その後」のドラマを紹介します。あるいは西軍につき、あるいはどちらにもつかず戦いを傍観した結果、多くの戦国大名が改易の憂き目にあいました。しかし、それはすべての終わりを意味するわけではありません。お家再興のために、彼らの「もうひとつの関ヶ原」が始まります。彼らの最大の武器は槍でも弓でも鉄砲でもなく、「コネクション」でありました……。

第2章では、江戸時代初期を中心に、改易されてしまった大名たちそれぞれの事情と再興運動、そしてその後の姿について紹介します。関ヶ原後に多くの大名が再興を遂げたように、改易は必ずしも完全なお家断絶を意味するわけではありません。それまでと同じような形で復活するのはさすがに無理でも、小大名として、旗本として、どこかの藩士として、血筋をつなげた例は決して珍しくないのです。彼らの涙ぐましいまでの努力と、「そもそもなんで改易になったのか?」を追いかけていきます。

第3章では、家を継ぐはずだったのに諸事情によって廃嫡されてしまった跡継ぎをフィーチャーします。特に江戸時代初期、豊臣政権から徳川政権へ天下がシフトするにあたって、少なくない数の跡継ぎが「豊臣政権と関係がある」、そして「幕府に危険視される恐れがある」という理由で廃嫡されてしまいました。彼らがそれぞれにたどった運命もまた、魅力的な人間ドラマなのです。

第4章では、「付家老」たちの事情を追いかけていきます。本家から分かれた分家大名、特に御三家に象徴されるような徳川一族の親藩大名には、「付家老」と呼ばれる上級家臣がいて、藩政に大きな影響力を持っていました。しかし、彼らはもともと本家=徳川家の家臣であり、つまり直臣(1万石以上の直臣を大名、それ未満で将軍と直接会う資格のあるものを旗本、その資格のないものを御家人という)だったのに、付家老になったせいで「陪臣」という一段落ちる存在になってしまったわけです。もちろん、そこには彼らそれぞれの思いがあり、ドラマを生み出すことになりました。

第5章では、その陪臣という身分から直臣に成り上がり、幕政にまで関与するようになった成功者たちに迫っていきます。彼らは「地方から(とはいっても、実際にはもともと江戸にいたりもするのだが)やってきた将軍」に付き従う形で直臣となり、出世を遂げていった人々です。成功するとそれに付随するさまざまな問題も生まれてくるのですが……。

以上の5つのテーマにおいて、それぞれの形での「大名の人事」を見ていきます。ぜひお楽しみください。

【殿様の左遷栄転物語】第5章まとめ 後ろ盾をなくしてしまえば……

江戸時代に異例の抜擢をされた人たちを見てきましたが、決め手となったのはやはり将軍との関係性です。 異例の取り立てだったからこそ、前任者や後任者のやっかみを買うのは当然のことだったのかもしれません。

【殿様の左遷栄転物語】田沼時代の終焉

田沼意次の息子・意知の暗殺について、何らかの陰謀があった可能性があるそうです。息子を亡くし、さらに後ろ盾であった将軍・家治も病没したため、意次は失脚することになります。

【殿様の左遷栄転物語】新参者の大活躍 田沼意次の時代

江戸時代を通じても田沼意次の存在は別格です。彼は革新的な経済感覚を持った人物で、有力大名たちと姻戚関係を結ぶなどして権力を保ちましたが、非常に人当たりのいい好人物という評価もあります。

【殿様の左遷栄転物語】強運の男 徳川吉宗の時代

徳川吉宗が側用人を廃止して設置したのが御側御用取次です。加納久通と有馬氏倫のふたりが有名ですが、大出世とまではいきませんでした。側近を利用はするが権力を高めすぎない、吉宗のバランス感覚が見て取れます。

【殿様の左遷栄転物語】「正徳の治」の崩壊

「正徳の治」を主導した間部詮房と新井白石ですが、家宣のあとを継いだ家継がわずか8歳で亡くなり、将軍が交代すると幕政から遠ざけられます。このとき新将軍に就任したのが紀伊藩主・徳川吉宗でした。

【殿様の左遷栄転物語】将軍のブレーン・新井白石

間部詮房とともに将軍・家宣を支えたのが新井白石です。白石は同時に儒学者として、家宣の師でもありました。

【殿様の左遷栄転物語】徳川家宣の時代 間部詮房

6代将軍・徳川家宣の時代も甲府藩主時代の家臣たちが幕府の直臣として取り立てられました。 なかでも高崎藩5万石の大名にまで出世した間部詮房は有名ですね。

【殿様の左遷栄転物語】綱吉が最も寵愛した男、柳沢吉保

側近、それも右腕と目されるほどに寵愛されると周囲のやっかみも生まれるというもの。新井白石らによる柳沢吉保への誹謗中傷はあまりにもひどいものでした。

【殿様の左遷栄転物語】綱吉の独裁、牧野成貞

5代将軍・徳川綱吉の側近というと牧野成貞、柳沢吉保らの名前が浮かびますが、吉保よりも格上の側用人がふたりいたことをご存知ですか?

【殿様の左遷栄転物語】第5章 地方から中央へ! 本社に栄転、成り上がる

江戸時代は良くも悪くも安定した官僚組織であったため、陪臣からの立身出世はむずかしかったのですが、仕えていた藩主が将軍家の後継ぎとなった場合にかぎりスライドしてして幕府の直臣となるルートがありました。

【殿様の左遷栄転物語】第4章まとめ 独立運動にも背景がある

付家老という微妙な立場について、当初はその役割や意義が理解されていたのでしょうが、平和な時代がつづくと不公平感が強まって独立運動に発展してしまいました。これは現代における人事の難しさとも言えます。

【殿様の左遷栄転物語】柳川一件

付家老ではないものの対馬藩宗家の家老・柳川調興が独立を画策して起こした「柳川一件」は大名と家老――とくに江戸育ちの藩主と国を預かる家老――の関係性を象徴する事件かもしれません。

【殿様の左遷栄転物語】北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老たち

御三家ではないが、北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家という親藩大名の付家老たちの紹介です。松平忠直、松平忠輝がともに幕府から重い処罰が下された背景には付家老も関わっていた可能性があります。

【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー水野忠央という怪物

安藤家とともに紀伊藩の付家老をつとめた水野家では幕末期の水野忠央がとくに有名です。彼は大名として独立するためにあの手この手の画策をおこないました。

【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー安藤直次の悲劇

紀伊藩の付家老をつとめたのは安藤家と水野家です。なかでも初代付家老である安藤直次は大坂の陣での徴兵において空手形を発行し、のちのトラブルになったようです。

【殿様の左遷栄転物語】尾張藩付家老と水戸藩付家老

今回は尾張藩と水戸藩の付家老たちについてまとめました。付家老となった経緯も立場も異なる彼らですが、代替わりが進むとともに独立志向が強まっていくのは共通しているようです。

【殿様の左遷栄転物語】付家老の宿願ーー独立

大名として独立したい付家老と、独立させたくない御三家。付家老を取り込みたいものの、御三家を監視するために独立は許さない幕府。この三者の微妙なバランスは幕末までつづきました。

【殿様の左遷栄転物語】駿河大納言の悲劇に巻き込まれた付家老たち

御三家以外にも付家老は存在しました。徳川家光の弟にあたる忠長には朝倉宣正・鳥居成次がつけられていましたが、忠長が失脚すると監督不行届が咎められ、連座して処罰されることになります。

【殿様の左遷栄転物語】第4章 付家老の悲哀 関連企業へ出向した役員は?

付家老の待遇は小藩の大名以上ではありながらも家格は旗本以下という、なんとも微妙な立場でした。御三家をサポートする重要や役割でしたが、幕政に関与できないジレンマもあったようです。

【殿様の左遷栄転物語】3章まとめ 後継者問題の難しさ

第3章では後継者問題のむずかしさ、とくに順当に長男が相続できなかったケースを紹介してきましたが、子どもが生まれないから養子を迎えたものの、その後に実子が生まれたため内紛発生――というのは「応仁の乱」に代表されるように「あるある」なんですよね。

【殿様の左遷栄転物語】「したたかな男」藤堂高虎の息子 藤堂高吉

名張藤堂家の祖となった藤堂高吉はそもそも丹羽長秀の子で、高虎の主君であった羽柴秀長の養子になっていたのをいろんな事情があって藤堂家の養子になった人物です。彼も歴史に翻弄された人ですね。

【殿様の左遷栄転物語】一代の英雄死して山形藩は……最上義光

東北の大藩、山形藩の最上家も義光のあとを継いだのは長男・義康ではなく次男の家親でした。これは幕府との距離感が大きく作用したと考えられますが、予想通りその後のお家騒動に発展することになります。

【殿様の左遷栄転物語】無念の長府藩主 毛利秀元

長府藩主となった毛利秀元は輝元の跡を継ぐはずの人物でした。当初は自らの代わりに毛利家を継いだ秀就の補佐をつとめていましたが、本藩支藩の力関係を示すためにうとまれるようになっていったようです。

【殿様の左遷栄転物語】計算かそれとも私怨の廃嫡か 細川忠隆

熊本藩主となった細川家も忠興の跡を継いだのは三男の忠利でした。長男と次男が存命だったにもかかわらず三男に継がせた背景にはいくつかの理由があるようです。

【殿様の左遷栄転物語】「神君の婿」 池田輝政の子供たち

池田家については江戸時代を通じて岡山藩・鳥取藩というふたつの大藩を受け継ぐことになるのですが、藩主が幼かったからとはいえ途中で入れ替えている点がおもしろいですね。

【殿様の左遷栄転物語】二重に抱えた複雑な事情 佐賀藩鍋島家

大名としての鍋島家はかつての主君でもある龍造寺家との微妙なバランスの上に成り立っていましたが、その鍋島家の中でも江戸幕府に配慮した跡継ぎ選びがおこなわれていたようです。

【殿様の左遷栄転物語】伊達政宗の長男が設立 宇和島藩伊達家

伊達秀宗は政宗の長男であったものの、母が側室であったことと豊臣家との距離の近さから仙台藩を継ぐことはかなわず、宇和島藩主となりました。 ちなみに秀宗の母、猫御前の名は史実にはなく山岡荘八さんの創作のようですね。

【殿様の左遷栄転物語】第3章 廃嫡される跡継ぎ 派閥争いのとばっちり左遷

「跡継ぎ」は戦国時代、江戸時代を通じて大名家の頭をもっとも悩ませた課題といえるかもしれません。その点では江戸幕府が「長幼の序」を基本ルールに置いたことは良かったのですが、長男が凡庸だった場合はトラブルの火種にもなるわけで……。

【殿様の左遷栄転物語】2章まとめ それまでの蓄積があってこその再興

改易されても終わりではない、それは現代に置き換えれば会社が倒産しても復活の可能性があるということです。 ただ復活した大名を分析してみると、やはり過去に積み重ねてきた実績や名声があってのことですね。

【殿様の左遷栄転物語】返り咲きを期待して決断 柳生宗矩

「柳生新陰流」で知られる剣豪・柳生宗矩は家康・秀忠・家光の三代に仕え、大和柳生藩をおさめる大名にまで出世を果たしましたが、その子には継がせませんでした。家を残すためにあえて旗本に落としたのだとすればさすがの慧眼ですね。

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