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「第5回信長学フォーラム」参加レポート

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この記事は2013年2月17日(日)に岐阜で開催された「第5回信長学フォーラム」の参加レポートです。

昨日は岐阜まで出かけて「第5回信長学フォーラム」に参加してきました。

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会場は岐阜駅のすぐそばにある「じゅうろくプラザホール」です。

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今回で5回目の開催だそうで、こういうイベントが継続的に開催されるというのはほんとうに素晴らしいことですね。
なんでも市長さんが信長を尊敬しているとかではじまったそうですが、今後も(たとえ市長が変わっても)ずっとつづいていってほしいです。

ちなみに今回は定員600人に対して、1600人もの応募者があったそうです。
またぼくもそうですが、4分の1が県外からの参加ということで、このイベントの注目の高さがうかがえますね。ほんとすごい。
(会場はほぼ満員で参加率の高さもすごかったです)

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基調講演として、「信長の棺」などで有名な作家の加藤廣さんが「日本史の虚と実」について話してくださいました。

 

そもそも日本史は事実認定がむずかしいそうです。
中国史の場合は権力者が変わるたびに前の権力者の悪い部分を喧伝しますし、西洋史の場合は地続きであることも含め王族同士が姻戚関係・親族関係にあるために常に多面的に記録されているので、結果的にバランスがとれているのですが、日本史の場合は信長の生年すら諸説があって定かじゃないくらいあやふやです。

ぼくらが知っている多くのエピソードも江戸時代の講談師が創作したものも多く、たとえば対本願寺・対毛利のために九鬼嘉隆につくらせたとされる鉄甲船について、当時はまだそんな鉄工技術はなかったので不可能だろうということでした。じっさい、この鉄甲船についての記録はほとんどなくて、奈良のお坊さんと、ルイス・フロイスくらいしか書いてないそうです。

また信長が建設途上の安土城の高見から遠眼鏡(望遠鏡)で周囲を眺めていて、下で働く土工が通りがかりの女をからかうのを見るなり駆け降りて、一刀のもとに切り捨てたという話もウソだそうです。なぜなら望遠鏡はオランダの眼鏡士であるリッペルスハイが、1608年にたまたま発見したので日本にあるはずがないから。

たしかに桶狭間の戦いについても、合戦の常識として谷あいに本陣を置くというのはあり得ないし(今川義元は当時有数の名将だった)、雨の中の奇襲というのも現在では否定されています。
「教科書に載ってるから正しい」わけではないということはけっこうありますね。

あと、濃尾平野は河川の氾濫が多く、米作に適していなかったという話はびっくりしました。
ぼくはずっと濃尾平野は肥沃な土地で、今川義元はそれを奪おうとしていたと思っていたのですが(「センゴク外伝 桶狭間戦記」でもそのような背景として描かれてましたね)、もしそうでないなら「桶狭間の戦い」の動機が変わってきますね。

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尾張は米作に不向きだったために織り物が発達し、また男手が余ってたからこそ兵農分離がしやすかった、ということだそうです。
このへんはもうちょっと勉強していきたいですね。

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つづいて小和田哲男先生による「本能寺の変」の解説講座です。

このへんは先日、このブログでも明智光秀の単独犯行なのか、それとも黒幕がいたのかについて整理して書きましたが、小和田先生は四国征伐回避説(斎藤利三積極関与説)か、明智光秀による野望説のうちの非道阻止説(理想相違説)を支持してるそうです。

blog.kojodan.jp

ちなみにこのあとのパネルディスカッションで会場に聞いた感じでは単独犯行説よりも黒幕説支持のほうが若干多かったです。ぼくは単独犯行説かなあ。

配布された資料にはこうした動機の諸説のほか、当時の武将配置図や関係人物の一覧がまとめられていて、すごくいい資料になってました(担当された方、ご苦労さまでした)。

たとえばこれは当日の光秀の進行ルートなんですけど、いつかこのルートを歩いてみたいですね。

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せっかくなので今年の6月1日〜2日に歩いてみてもいいかもしれませんね。

パネルディスカッションでもおもしろい話がありました。

加藤さんたちが行った試算では、信長が殺害した人数は約93000人だそうで、当時の人口が約2000万人であることを考えると、推計とはいえ国民の0.5%近くを殺しているため、光秀は信長のあまりの非道ぶりに謀反を考えたのではないかということで、この説はたとえ主君であっても非道は正すべきという当時の考え方にも符合しますね。

明智光秀には決定的に運がなかったという話も納得で、もし山陰道ではなく、秀吉が命じられた山陽道を光秀が担当していれば歴史は変わっていたと。
山陽道の城は、山陰道と比べると落としやすいですからね(まあのちに反乱した三木城には2年もかけてますけど)。じっさい秀吉のほうはさくさく攻め取って、山陰道のはずの鳥取城まで落としているわけで、ふたつのルートのどちらを担当したかで歴史が変わったというのはまさに「運」ですよね。

などなど、たくさんの話が聞けてとても楽しかったです。
わざわざ京都から電車に乗って出かけたかいがありました(新幹線は使わず在来線で)。それに意外と近かったです。乗り換えが何度かありましたけど、ずっと座れましたしね。
ICOCAで入っちゃって、岐阜駅で出れなかったのはうっかりしてましたけど。

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岐阜市はこの「信長学フォーラム」のほかにも、岐阜城の発掘調査なども積極的にされています。
日本史には曖昧な点が多いものの、こうした調査によってわかっていくことも確実にありますし、それを世間に伝えていくという活動はとても意義深いですから、次回の開催にも期待しています。
(市役所のみなさんは休日出勤で運営していただきありがとうございました)

これからもこうしたセミナーやイベントには積極的に参加してレポートしたいと思います。
いずれは攻城団でもみんなで歴史を学ぶセミナーを企画開催していきたいです。

[追記]
余談ですが、小和田先生が時代考証の監修をされた「功名が辻」の裏話はおもしろかったです。
(山内一豊は関わってないので)原作では4行しかなかった本能寺の変で一話やるということで、脚本家の大石静さんが書いたのが、信長が火縄銃を手にして銃撃戦をやるという内容だったそうです。
さすがにそんな事実はないと指摘されたそうですが、その日に本能寺に火縄銃が一丁もなかったという証拠もないのでけっきょくそのまま放送されたそうです。「功名が辻」は見てたんですけど、そのシーンはおぼえてないです。DVD買っちゃおうかな。

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