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リアル真田丸を見てきました(三光神社、心眼寺、安居神社などを訪問)

先日、姫路城にいった翌日、せっかく関西まで戻ったので大阪に寄って、真田丸跡を見てきました。
こないだテレビでやってるのを見て、じっさいに自分でもあの空堀の高低差を味わってみたかったんですよね。

今回のコースはこんな感じです。

大河ドラマ『真田丸』のタイトルの由来にもなっていますが、真田丸というのは1614年(慶長19年)に徳川家康が大坂城を攻めた「大坂冬の陣」において、豊臣方についた真田信繁が築いた砦(出城)のことです。
ま、すでにみなさんご存知ですよね。

ここから少しだけ真田丸の説明をしますので、もう知ってるよという方はすっ飛ばしてください。

真田丸とは

豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地(うえまちだいち)と呼ばれる丘陵地の上にあるので、自然にできた地形の高低差がそのまま防御壁になっていました。おまけに東は猫間川・平野川、北に天満川、西に東横堀川などが流れており、文字通り天然の要害でした。
まあそういうところに城を築くのは常道ですからね。
ただし南側だけは台地がそのままつづいているので高低差がなかったんです。大坂城唯一の弱点というわけです。

もちろん秀吉は弱点をそのまま放置するような人じゃないので、南側には空堀をつくったり、城下町を置いて惣構(そうがまえ)を築いたりして、防御力を高めていました。
要は本丸までにいろんな障害物を置いたり、人工的な凸凹を造成したりして、なかなか辿りつけないようにしたわけです。とくに当時はお寺が非常時における小規模な砦として利用されていたので、お寺もたくさんありました。

とはいえ防御力が低いことは変わらないので、真田信繁は徳川家康が南側から攻めてくることを見越して、ここに「真田丸」という砦をわずか1ヶ月ほどで築きました。
余談ですが真田丸のことを「偃月城」ともいうみたいですね。

ただこの「防御が手薄な南側を守るために真田丸を築いた」という説には異論もあって、奈良大学学長の千田嘉博先生によれば、むしろ真田丸は敵の注意を引きつけるための囮(おとり)で、ほんとうに防御が手薄な弱点をカモフラージュするために築いたと指摘されています。

謎の多い真田丸

真田丸が「大坂冬の陣」で使われたこと、信繁がここに陣を置き、徳川方の前田利常などの軍勢を撃退したことはわかっているのですが、ではその真田丸がどこにあったのか、どんな形をしていたのかなど、実態についてはわからないことだらけです。
そもそもほんとうに信繁が築いたのか、あるいは以前からあった砦を改修して利用したのかすらわかっていません。

以前は絵図に残った真田丸の形状や、武田氏の流れをくむことから半円形の「丸馬出」だったと考えられていましたが、最近は半円形ではなく長方形だったとか、馬出と曲輪の二重構造だったとか、いろんな説が出ていてどんな姿だったのかは謎のままです。

NHK ONLINE『真田丸』公式サイト

またその位置についても正確にはわかっていません。
多くの絵図では、真田丸は大坂城に隣接して描かれていますが、『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』には独立した出城として描かれており、大坂城とくっついていたのか離れていたのかも謎のままです。

「戦国時代最強の砦」という評価の是非はさておき、真田丸が「大坂冬の陣」で重要な役割を果たしたこと、徳川方に多数の戦死者が出たことはまちがいなさそうです。
ただ現在もわからないことだらけなんだということはおさえておきましょう。

ちなみに「大坂冬の陣」は約2ヶ月の戦の末に和議が成立しましたが、その条件のひとつとして真田丸は取り壊されました。家康は再攻撃を考えていたでしょうから、厄介な真田丸の破却は堀を埋め立てるのと同じくらい重要だったんでしょうね。

真田丸にいってきた(冬の陣エリア)

ではいよいよ本題というか、旅のレポートです。
真田丸と真田信繁にまつわる関連スポットを数か所めぐってきました。

今回はJR大阪駅からスタートです。ざっと3時間半くらいの旅です。

まず環状線で玉造駅まで向かいます(14分)。

ちょっとピンぼけしました

駅から5分ほど歩きます。環状線の内側(駅から西)に向かって歩いていくと、なんとなく高低差を感じることができると思います。

最初のスポットは三光神社です。「真田丸」ののぼりが立ってますね。

三光神社

三光神社で見るのはここです。幸村(信繁)の像ですね。1987年(昭和62年)5月5日に建立されました。

真田幸村公之像と抜け穴(?)

左にある洞窟は信繁が掘らせたもので、大坂城までつづいている地下道(抜け穴)だという伝承があります。

中はこんな感じです。
神社の方に聞いたら、いまは入口から数メートル先で埋まってしまっているそうです。

拝殿には顔はめパネルがありました。

信繁の像を背中から。スキだらけ。

神社のとなりが宰相山公園と呼ばれてる公園なのですが、三段になっていて砦跡っぽい雰囲気がありました。

ネコがいました。

ちょっと引いて見てみると、公園と神社の一帯が小高い丘になっているのがよくわかりますね。

公園にそって歩いていきます。
おそらくこのあたりは空堀だったんでしょうね(地名も「空堀町」です)。

右側は大阪市立真田山小学校ですが、かなりの高低差があります。
「ブラタモリ」に出てきそうだけど、ここは河岸段丘ではなく人工的な崖っぽいです。

真田山小学校にそった道を抜けると、天王寺スポーツセンターに出ます。
この坂のふもとの交差点名が「真田山」で、このあたりは「真田山町」という町名になっています。

この坂道をのぼっていきます。
交差点まで来たら右折しましょう。

坂の途中に石碑があります。左手にあるのが大阪明星学園(明星中学校)です。

真田丸顕彰碑
 慶長五年(一六〇〇年)の関ケ原合戦で西軍に与し敗軍の将となった信州上田城主真田昌幸・幸村(信繁)親子は、戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県九度山町)に移った。父昌幸は慶長十六年六月四日に九度山で亡くなるが、幸村は、大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長十九年十月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城した。
 幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。これが「真田丸」で、幸村は慶長十九年十二月四日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉にとった。
 「真田丸」の場所については、元禄年間(一六八八年〜一七〇四年)に作成された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得たのである。 平成二十八年一月 天王寺区役所
協力 大阪明星学園
題字 脇田龍峯

この坂は「心眼寺坂」というらしいですけど、つづいての目的地は「心眼寺」です。

心眼寺

心眼寺は秀吉が大坂城を築いた頃に創建された寺です。
ここは真田丸の一部(東北側の曲輪跡)といわれています。

扉には六文銭がありますね。

入ってすぐのところに信繁の墓碑があります。

従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓

心眼寺は「大坂冬の陣」のあとに周辺の真田丸を構成していた部分とともに取り壊されましたが、1622年(元和8年)に真田幸村とその子の大助の冥福を祈るためにあらためて建立されています。
ただし当時は幕府の直轄地だったこともあり、信繁父子の墓はつくられませんでした。現在の墓碑は400回忌にあたる2014年(平成26年)10月にようやく建てられたそうです。

あ、ちなみに墓碑には「豊臣信繁」とありますが、これは1594年(文禄3年)11月に秀吉の推挙により従五位下左衛門佐に叙位任官したときに豊臣姓を授けられたためです。
当時は「お前、今日から『豊臣』を名乗っていいよ」と苗字を与えることができたんですね。

墓地の奥が崖になっていて、この下が空堀だったんですね。

ここに降りてみましょう。
下から見るとこんな感じです。かなりの高低差ですね。

反対側です。これがずっと空堀跡で左の崖上が真田丸のあった場所といわれています。

堀跡にそって、大阪明星学園の周囲を歩きます。

坂をのぼりきったところにあるのが「鎌八幡」です。

ちなみにここから大坂城までは1.1kmだそうです。

鎌八幡

この「鎌八幡」には「大坂冬の陣」の際に、信繁が鎌を打ちつけて必勝祈願をしたという榎の霊木があります。
(第二次世界大戦で焼けたため、現在は残った根から蘇生したもの)

だいたい1時間くらいかけて真田丸跡を歩いてみましたが、規模感とかはいまいちよくわかんなかったです。
でも空堀の高低差は平面の地図ではわからないので、自分の目で見れたのはよかったです。まあストリートビューでも見れるんですけどね。

このまま玉造駅に戻って大阪城を見学するのもいいんですけど、今回は「大坂夏の陣」の舞台にいきます。

茶臼山にいってきた(夏の陣エリア)

地下鉄に乗って、四天王寺前夕陽ヶ丘駅までいきます。
今回は鶴橋駅まで歩いて、地下鉄に乗りました。

駅から地上に出ると、あべのハルカスが見えてるのでそっちに向かって歩きます。

ちょっと細い道を入っていきます。

ここは「天神坂」というらしいです。

天神坂
 安居天神へ通ずる坂道なので、このように呼ばれている。この神社境内は大坂夏の陣に真田幸村が戦死したところで、本殿わきに「真田幸村戦死跡之碑」がある。また、同境内すぐ下には七名泉の一つ、安居の清水があり、「かんしづめの井」(癇静め)とも呼ばれよく知られている。

安居神社

安居神社です。こっちは裏口にあたるみたいですね。

安居神社は「真田信繁終焉の地」といわれているように、信繁が戦死した場所です。
この神社の境内で休んでいたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られた、といわれています。

社殿です。

社殿に向かって右側に幸村像があります。

平日だったんですけど、5人くらい見学に来られてました。

眞田幸村陣歿の旧跡
元和元年大阪夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて、大阪城を攻めた。ここに於て大阪の兵は城の既に恃むべからざるを知って出でて戦ひ、五月六日幸村は後藤基次、薄田兼相等と大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍となって伊達政宗の兵と戦い、翌七日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢四十九歳であった。当時の松は既に枯死したが、社殿復興を機に昭和二十六年四月ニ十四日これを記念して植樹された。
 例年五月に幸村祭が盛大に行われる。

幸村像と石碑です。

なんというか、えぐい表情をしていますね。

幸村像のあるところが本来の入口で、この細いところが通路になっています。

国道25号線沿いに安居神社の石碑があります。

「眞田幸村戦歿地」の石碑もあります。

ここからは通天閣もよく見えます。

道路の反対側が「茶臼山町」で、200mくらい南に茶臼山があります。

が。

茶臼山

工事中で茶臼山には入れませんでした。残念。

せっかくここまで来たので、周辺をまわってみます。

3月31日まで工事のようです。
おそらく大河ドラマ『真田丸』で「大坂夏の陣」が描かれるのは年末でしょうから、それにあわせて整備してるんでしょうね。

和気橋をわたってみましたが、入れなくなってます。

茶臼山ごしの通天閣です。

ということで、「大坂夏の陣」では徳川家康が陣をおき、「大坂冬の陣」では真田信繁が陣をおいたとされる茶臼山にのぼることはできませんでしたが、4月以降に訪問された方の写真を楽しみにしています。

家に帰って調べて知ったんですが、茶臼山はもともと茶臼山古墳という古墳で、かつては大塚城という名前のお城があったそうです。
あわててデータをつくりましたよ。

kojodan.jp

ぶらぶらと散歩がてら天王寺駅まで歩いたんですが、大阪市立美術館のところに「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」が移築されてるんですね。

こういう遭遇はラッキーです。

また公園の入口近くにお城の形をしたホテル(?)があるのですが、そこに石碑がありました。

なぜか「!」が多い、元気な! 説明文が! 書いてあります!

茶臼山歴史について!
 慶長3年、1598年8月18日、豊臣秀吉は、63歳で死去!
死の直前、徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の五大老、現在風でいえば、大物大臣である!
さらに、五奉行に石田光成、浅野長政、増田長盛、前田玄人、長束正家をおいた、秀吉死去により、家臣石田光成、浅野長政軍は関ヶ原で、徳川家康との最後の戦となった、秀吉の長男秀頼を母淀君が庇って戦いに出さず、豊臣家の家臣が、次々と徳川家に付き、関ヶ原で石田光成軍が敗北した!
 そのころ、真田幸村は和歌山九度山にいた、大阪城にかけつけた時、大阪城は徳川家の手におちる寸前であった!大阪城攻防で名高い茶臼山は冬の陣では家康の本陣となり、夏の陣では幸村の激戦地となった!
夏の陣は、冬の陣のわずか4ヶ月後のことで、幸村はただちに国分道明寺に出陣した後、大阪城最後の決戦にのぞむ!主戦と成ったのは、茶臼山から四天王寺西門あたりで幸村軍はすさまじい勢いで家康軍に殺到したが、全員討ち死にし大阪城本丸炎上、秀頼、淀君討ち死に豊臣家二代にわたる栄華は、夢ときえた!!

石田三成の字が「光成」、前田玄以が「玄人」になってますね。
(なにか意味があるのかなあ)

天王寺駅でごはんを食べて、環状線に乗って大阪駅まで戻りました。
ぼくはそのまま帰宅しちゃいましたけど、体力的に余裕があれば大阪城に寄るのもいいと思います。

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