攻城団ブログ

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城のルーツは環濠集落? 教科書に出てくる吉野ケ里遺跡で城の定義について考える

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城の定義や起源というのはけっこう曖昧で、これといった明確な決まりがありません。
一般的には弥生時代の環濠集落を城の起源としていて、敵からの攻撃を防ぐために周囲を堀で囲み(ゆえに環濠)、さらに掘る際にできた土を使って土塁を築いた環濠集落の発展形が安土城江戸城というわけです。

お城といえば戦国時代のものという認識をされている方が多いんじゃないかと思いますが、お城のルーツは卑弥呼の時代にあるんだということは豆知識です。
ちなみに日本城郭協会でも上記の定義で、今回訪問した吉野ヶ里遺跡も同協会が発表した「日本100名城」に選定されています。

まあ、ぼくも環濠集落が城かといわれれば「うーん」という気持ちがなくはなかったです。
でもじっさいに現地を訪問すると「ああ、これはまちがいなく城だ。城というものは形状で語るものではなく、作り手の考え方や、その構築の必要性で語るものなんだ」と思いました。

そんな吉野ヶ里遺跡の訪問レポートです。
えーっと、いきなり愚痴ですが、駅から遠いです。

ほぼ直進なので迷うことはないんですけど、ひたすらこんな感じの砂利道を進みます。

ようやく吉野ヶ里歴史公園の入口にたどり着いても、さらに歩きます。

前方のアーチ型のところが入園ゲートになっています。ここに売店やレストランなどもありました。

ここからチケットを購入して遺跡エリアを散策できるのですが、この先も1時間くらい歩き倒すことになるので、疲れてる場合は先に休憩するのもアリです。
(いちおう途中に休憩できるポイントはあります)

ぼくは電車の時間を気にしていたこともあってそのままゴーです。

吉野ヶ里歴史公園のマスコットキャラクター「ひみか」だそうです。意外とかわいい。「やよい」という妹がいます。
いま気づいたけど「50月」になってますね。

大きな橋をわたると遺跡エリアです。

これは「逆茂木(さかもぎ)」という防御設備で、ようは丸太を尖らせて侵入しようとした敵を脅すものです。

考え方としては天守などについている「忍び返し」と同じですね。

高知城の忍び返し

こんな感じで園内は地面は舗装されているんですが、植物が生い茂っていて人工と野生が混在してました。
土曜日だったんですけど、人は少なかったです。

ウォーキングと考えたらとてもいい運動になると思います。

教科書で見たようなのが出てきましたね。

どん!

いいじゃないですか。実物を肉眼で見ると、写真よりもかなり迫力あります。

でもここでいったん休憩です。
駅からぶっ通しで歩いてきたので、熱中症になりそうだったので水分補給。

じつはここにトイレ兼資料館兼休憩スペースがあります。

展示物は時代が時代なので、農耕系の道具が多かったですけどね。

顔ハメもしぶすぎます(もうちょい背景を工夫したい)。

自販機と椅子があったので、ここで少し休憩して、あらためて遺跡エリアに戻ります。

この櫓門には上がれます。

では環濠集落の中に入ります。

こんな感じでスタッフ(?)の人はみんな村人のコスプレしていて、親切に案内してくれました。
このおじさんも「あそこの櫓にのぼっておいで。最高だから。はやくいったほうがいい」と猛烈にプッシュしてくれました。

その物見櫓です。

さすがにはしごではなく階段でした。

これが物見櫓からの眺めです。たしかにこれはいい。
おじさんが「降りたくなくなるよ」といってたのもわからなくはない。

環濠集落の外はこうなってます。

風がとても気持ちよかったです。
公園内にはこうしたのぼれる物見櫓がほかにも何箇所かあります。時間があればぜんぶのぼってもいいかもしれないですね。

ここまでが「南内郭」と呼ばれるエリアです。
また少し歩きます。

ここからが「北内郭」です。
こっちは王の宮殿ということで、防御もより厳重なものになっています。

むかしこういう迷路あったなあ。

曲輪自体はそれほど大きくはないですね。
この右側の「主祭殿」と呼ばれる建物で儀式をおこなったそうです。

ここものぼれます。

もうひとつ上の階は巫女さん(のマネキン)がいました。

高床住居です。高床式倉庫も別の場所にありました。

ここも入れます。

中はこんな感じでした。

こっちの物見櫓はちょっと形状が異なりますね。

上からの眺めです。ここで頭をぶつけました。

だいたいこんな感じです。じっさいには吉野ヶ里歴史公園はもっと広くて、いろんなエリアがあります。ぼくが今回まわったのは半分弱くらいかな。

同じような風景がつづきますね。
そうそう、これ休憩所なんですけど、こういう配慮はすばらしいですね。
(同化しすぎて気づかない人もいるんじゃないかと思ったけど)

ほとんどの建物は中に入れるようになっていたので、いっそ一泊して祭事などを体験できるイベントとかあるといいですね。もうやってるのかな。

で、冒頭の「城とはなんなのか」という問いを歩きながらも考えてたわけですけど、まず城の前提は戦争ですよね。つまり戦う相手、すなわち敵がいる。
その敵から自分たちの命や財産(この当時だと食料とか)を守り、場合によっては反撃できる防御施設として築いたものが「城」であると。

そう考えれば、この時代の環濠集落はまちがいなく城なんですよ。
規模は小さいし、戦国時代の城と比べたら瞬殺されそうな防御レベルではありますが、それは戦国自衛隊みたいな話で、いまの軍事力なら大坂城だって数時間で落とせるわけで(もっと短いかな)、その時代の敵の攻撃力さえ防げれば十分なのです。

さらにいうと、そうして相手が「守る」からこそ、寄せ手は「攻める」ための創意工夫が必要になって、それが弓や槍などの武器の進化につながり、今度はそれを防ぐためにさらに防御側の進化がうながされてきたわけですよね。堀を深くしたり、水をはったり。

その結果として、ぼくらがイメージする戦国時代の城につながっていくと。

お城というのはひとつ一つがちがっていて、天守はもちろん縄張りにも個性があるのでそういう個々のちがいを見ていくのもとてもおもしろいです。
でもこうして何百年にもわたって、「城」という構造物がどう進化していったのか、その歴史や変遷をたどっていくのも同じようにおもしろいなと思いました。

帰ってから知ったのですが、この吉野ヶ里遺跡周辺はクリーク地帯(細かく枝分かれした水路や小川によって複雑に分断されている地形)で有名なんですね。
いまは公園化されていますが、直鳥城横武城など、そのクリークを利用して、ようは池や湿地帯に浮かぶ大小無数の島をつないで要塞化して築かれた城がいくつかあります。

佐賀県ってお城のイメージがあまり強くなかったんですが、今回まわった名護屋城唐津城も佐賀県ですし、龍造寺氏や鍋島氏の歴史もおもしろいですし、もうちょっといろいろ学んでみたいですね。

駅に戻ったらちょうどソニックが通過してました。かっこいいなあ。

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