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河越城 奇襲によって大軍を破った戦い

 河越城(のちに川越城)は埼玉県川越市にあった平城(平地に築かれた城)だ。1457年(長禄元年)に、扇谷上杉持朝の命を受けた、家臣・太田道真によって築城されたといわれている。
 1546年(天文15年)にここで劇的な籠城戦がおこなわれた。『河越夜戦』と呼ばれる戦いで、相模国小田原城主・北条氏康がわずか8千人で8万もの大軍を討ち破っている。

 まずは戦いが起きた背景を確認しておきたい。当時の関東では北条氏が領地を拡大しつつあった。相模を領していた北条氏は領地を広げ、武蔵へと手を伸ばしている。近隣の大名はそれを不安視し、それまで内紛をしていた武蔵の扇谷上杉氏と上野(こうずけ)の山内上杉氏が手を結んだ。
 両家は同じ祖を持っており、鎌倉山ノ内、鎌倉扇谷にそれぞれ居を構えたため山内上杉氏、扇谷上杉氏と呼ばれている。上杉氏の宗家となっていたのは、山内上杉氏であった。そのため、鎌倉府の首長・鎌倉公方の補佐を務める関東管領が世襲されている。将軍と近しい存在だった山内上杉氏だが、一族の一末流でしかなかった扇谷上杉氏が台頭したため、危機感を持つようになる。やがて同じ一族で内紛をするようになってしまったという背景がある。
 さらに茨城県の最西端・古河を拠点とする古河公方(鎌倉公方が戦乱の中で古河に逃れて成立)足利晴氏もこれに加わり北条氏を討とうと企てた。晴氏は北関東の豪族からの支持を集め、関東の覇権を握ろうとして上杉氏らに対抗していた。北条氏との仲は姻戚関係を結んで良好であったが、当主の氏康との仲が良くなく、上杉氏の求めに応じての参戦となった。彼らは連合して、北条氏が城代を入れていた河越城を落とそうとしている。
 それは河越城が関東の要衝だからである。築城と同じころに東方20km先に岩槻城、道真の子・道灌によって江戸城が築かれ、武蔵南部を支配する扇谷上杉氏の戦略的拠点となっていた。それゆえ、北条氏と上杉氏との間で何度も奪いあいがおこなわれたという経緯がある。
 連合軍は1545年(天文14年)、8万騎と称する兵を出し、城代・北条綱成が籠る河越城を取り囲んだ。城中の綱成が有するのはわずか3千の兵。戦ったところで勝てるはずもなく、ただ援軍を待つしかなく籠城戦を行った。
 この連合軍に対抗するのは、北条家の当主となって間もない氏康であった。1541年(天文10年)に父・氏綱が亡くなり、当主となったばかりだ。
 氏康が援軍を送ったのは翌年、1546年(天文15年)のこと。馬廻衆8千を率いての出陣で、相手の兵数の十分の一という頼りないものだった。
 真正面から戦えば敗北するのは目に見えている。状況打破のために、氏康は知恵をめぐらした。間者を送って敵の内情を探りつつ、出撃しては退却を繰り返した。さらに、古河公方に媚びるような姿勢を示したり、上杉氏に和睦を申し出たりもしている。これらは作戦のひとつで相手は北条方を侮りはじめ、連合軍の中には驕りが生まれていく。
 数日かけて敵陣に驕りを生み出した氏康は、機は熟したとみて奇襲をかけた。隊を四つにわけ、一隊は遊軍として待機、残りは攻めるタイミングを変えて波状攻撃を行わせている。さらに城に籠っていた綱成の3千も城を出て襲撃をしたため、包囲していた兵は蜘蛛の子を散らすように逃げだしたと伝わっている。この戦いで扇谷上杉朝定は戦死、山内上杉憲政は上野へと敗走、足利晴氏も下総へと逃げる事態となった。連合軍は1万3千ほどが亡くなる大きな損害を出し、大敗を喫してしまった。それ以降、連合側の勢力は次第に衰退していく。
 北条氏はといえば、その後和睦を願う近隣大名も現れ、関東でさらに大きな勢力となっていった。

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