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大津城 開城がわずかに早かった城

 大津城は近江国(滋賀県大津市)にあり、琵琶湖による水運だけではなく、街道が集まる要所として重要視されている。豊臣秀吉もその重要性を認識し、家臣の浅野長吉に命じてここに築城させた。大津城は水城と呼ばれる平城の一種で、外敵を防ぐために水堀(湖沼などを堀として利用する)がある城だった。城はその後、所有者を次々と変え、今回紹介する騒動が起きた「関ヶ原の戦い」のときは京極高次が城主となっている。

 高次は近江に生まれたが、幼い時は織田家の人質として岐阜にいた。その後、織田信長に仕えたが、「本能寺の変」で反旗を翻した明智光秀に味方している。光秀敗北後、高次も逃げる必要に迫られ妹の夫にあたる若狭の武田元明を頼った。秀吉に元明が討たれると、妹の松丸殿が秀吉の側室となったため許されている。
 1595年(文禄4年)、高次は6万石の領地を与えられて大津城に入った。このような優遇は、妹・松丸殿が秀吉の側室であること、正室・初(常高院)が秀吉の側室・淀殿の妹であることが影響している。
 秀吉の没後は豊臣政権で権力を握った徳川家康に通じ、信頼関係を築くにいたった。そのため、家康と石田三成の間で「関ヶ原の戦い」が起きると、家康に味方している。この戦いは天下分け目と称され、実質、秀吉の後継者を決める戦いであった。家康は江戸に、三成は近江にいたため、前者を東軍、後者を西軍と呼んでいる。
 1600年(慶長5年)7月、西軍・毛利輝元の挙兵に際し、従うふりをした高次も2千の兵を率いて東軍・前田利長に対抗するために出陣した。そうしなければ、大津城は西軍に取り囲まれてしまうので、カモフラージュである。だが、ずっと西軍の顔をするわけにもいかず、軍が美濃に戻るのを機に、大津城へ戻って籠城の準備を進めた。
 高次が東軍に味方していることを察知した西軍は、高次への攻撃を決める。1万5千の兵を率いて9月13日より大津城への総攻撃を始めた。高次らは城で籠城戦をするが、西軍は大砲を使って城を攻撃。天守閣を破壊するなどして、城内の者の戦意を削ごうと企んだ。しかし、高次と家臣たちの戦意は損なわれず、西軍の猛攻を耐えたのである。
 9月14日の攻防の最中、西軍は遣いとして高野山(和歌山県伊都郡高野町)の僧・木食上人応其を城内にやり、開城の交渉を進めさせた。高次はまだ戦意を失っていなかったが、周囲の意見を聞き入れる形で開城を決断する。その理由の一つには外との連絡がとれず、家康側の動きを知らなかったこともあっただろう。もし、彼がより幅広い情報を得ていたなら、どんな決断をしただろうか。
 9月15日の朝、高次は髪を剃って高野山に移った。皮肉なことに、「関ヶ原の戦い」に決着がついたのも、同日のことだった。
 東軍の先鋒が同日の明け方に関ヶ原に到着。家康も陣を整え、午前7時すぎに戦いは始まった。東軍9万余、西軍8万余がぶつかったが、家康がかつてから内応を促していた小早川秀秋の裏切りによって西軍は瓦解。午後2時ごろに東軍の勝利で幕を閉じた。あと少し待てば......と、高次には悔やまれる結果となったろう。
 とはいえ、勝ったのは東軍である。また、高次が大津でがんばって西軍が足止めしたのは、全体的にみれば十分な貢献だ。そこで家康は敗北を恥じる高次を説得して高野山から降ろすと、若狭小浜8万5千石(のちに加増して9万2千石)の大名にしたのだった。

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