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忍城 豊臣の猛攻に耐えた堅城

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 戦国時代末期、豊臣秀吉は配下の諸大名を総動員して20万ともいう未曽有の大軍をかき集め、自らに従おうとしない関東の覇者・北条氏を攻めた。世にいう「小田原征伐」である。この戦いでは北条氏の本拠地・小田原城で長期の籠城戦がおこなわれたが、一方で北条の支配下にある関東各地の城でも数々の戦いがあった。豊臣方の石田三成による忍城攻めもその中のひとつだ。

 舞台となる忍城は北条氏の支配下にあった成田氏長の居城であった。埼玉県行田市にあり、湿地帯の中に点々とある島に築かれている。城は攻めにくく、越後の上杉謙信を退けるなど、堅城として知られる。城は1490年(延徳2年)、成田親泰によって築城された。それ以降も成田氏が代々城を守っている。
 秀吉がこの忍城をはじめとする北条方の城を攻めさせたのは、小田原城を孤立させ、プレッシャーをかけさせるためだ。その一環として家臣の石田三成に2万6千の兵を預けて忍城攻略を任せている。対する氏長は小田原に出陣しており、残った忍城に籠る成田勢は約500人、それ以外に2500人ほどの農民や女子供がいた。その中に、氏長の娘・甲斐姫の姿もある。彼女は武芸や学問に精通する美女だったそうだ。氏長は出立の前に、城を守るように彼女に厳命した。
 難攻不落の忍城を攻め落とすため、三成は水攻めを決行する。高松城で秀吉がやってのけたように堤防を築かせた。総延長約28キロメートル程度の堤防はわずか5日で完成。城の南に作った堤防は、利根川、荒川の水を城へと運んだ。
 水攻めは順調に進み、忍城は天守が湖に浮いているような状態となったため「忍の浮城」と呼ばれることもある。成田氏も手をこまねいてばかりではない。水練(水泳)に秀でた者に堤を何カ所か壊させたのだ。それに堤防工事のずさんさ、関東特有の雷雨が重なり堤防は決壊。三成側に逆流するという成果を得た。
 損害を受けた三成は、その後も落城をさせられず、忍城で足止めをくっている。小田原城の支城が次々陥落する中で忍城だけは落ちることはなかった。
 その間に、7月5日北条氏が秀吉に降服。主君の居城である小田原城が陥落すると、それに応じて7月11日に忍城も開城する運びとなった。わずか数千人が籠る城は、豊臣の大軍の攻撃をしのぎきったのである。その後、甲斐姫の噂が秀吉のもとに届き、側室へと迎えられている。そのため、氏長は処罰を受けることなく、烏山城(栃木県那須烏山市)が与えられ2万7千石を安堵された。
 側室となったのちの甲斐姫の動向がわかる史料はないが、今日にも秀吉の大軍と渡り合った武勇は残っている。

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