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鳥取城 日本史に残る、凄惨な籠城戦の舞台

 鳥取城は久松山(鳥取県鳥取市)の山頂に築かれた山城であった。1545年(天文14年)に因幡守護・山名誠通によって築城されたと伝わっている。山名氏の居城・布施の天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)の出城(本城以外の要害に築かれた城)として使われていたといわれており、城代として山名氏の家臣・武田高信が入っていた。高信が城主の山名氏を裏切り、城を手にしたあと、高信自身も山名氏の一族・山名豊国に殺され、城主は豊国となった。

 中国地方の平定を命じられた秀吉が因幡を目指したのはそんな時だ。秀吉は三木城を開城させた後、さらに西へと目を向けた。備前の宇喜多直家は降伏を申し出て、但馬は秀吉の弟・秀長によって平定されていた。そこで秀吉の次なる標的が因幡となった。
 1580年(天正8年)、秀吉の大軍が鳥取城を攻め、山下の町を焼き、別の城にいた人質を使って豊国に開城を迫った。人質の娘に槍がつきつけられ、豊国はたまらず開城を申し出ることになる。
 翌1581年(天正9年)に、豊国の代わりに吉川経家がこの城に入っている。経家は毛利両川・吉川元春の一族。毛利両川は戦国大名・毛利元就が有力者である吉川氏、小早川氏の力を吸収すべく、次男・元春を吉川氏に、三男・隆景を小早川氏に養子に出して、築いた協力体制のことだ。経家も毛利方に属し、いくつもの戦いに参加している。その功によって、鳥取城を任されたという経緯があった。
 秀吉も鳥取城を侮ることなく、戦いをするのは得策ではないと判断。三木城攻略の時と同様に兵糧攻めをおこなうことを決めた。そのうえで、三木城での戦いが長引いたことを反省し、いくつかの対策を立てていた。
 まず、城への兵糧の搬入をふさいだ。三木城ではこっそり兵糧が運びこまれたために長期戦になってしまったので、因幡の米を相場以上の価格で買い取り、兵糧の搬入を困難にした。
 さらに兵糧の消費量を加速させる策も実行した。兵に命じて城下の農民たちを虐待させている。これで農民は城に逃げ込まざるを得なくなり、兵糧を消費する人間の増加に成功した。最終的には城に1400人が籠ることになり、秀吉は2万という大軍でこれを包囲した。
 経家としては雪が積もる11月まで籠城を続ければ、秀吉が諦めて兵を退くと踏んでいた。ところが、秀吉の策により兵糧の入手が困難になり、兵糧は予想に反して早くなくなり、9月ごろには尽いてしまったのである。
 そのため城内では食べるものがなくなり、草の根や木の皮などで飢えをしのぎ、馬を殺して肉を食らう。それでも餓死者がでる有様で、さらには餓死者の肉を生きている人が食べるという惨状であった。
 この状況を見て、経家も戦いを続けることは無理だと判断し、自分の切腹と引き換えに家臣の助命を秀吉に願っている。秀吉はこれを認め、10月25日に経家は切腹、鳥取城は開城となった。日本史の中でも類を見ない凄惨な戦いはこうして幕を閉じた。

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