攻城団ブログ

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【京の冬の旅】妙心寺天球院で狩野山楽・山雪の「竹虎図」等を見てきた

今回の「京の冬の旅」で妙心寺は3つの塔頭が特別公開の対象になっています。

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そのひとつが天球院です(残りの麟祥院、龍泉菴についてはまた後日書くかも)。

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この天球院は「姫路宰相」や「西国将軍」の名で知られる池田輝政の妹、天久院の菩提寺です。
建立者とか名前の由来とか謎が多いので、それは後述するとして、このお寺の方丈(ほうじょう)を飾る障壁画は、「京狩野」の始祖である狩野山楽とその娘婿・山雪によって制作されています。近年の研究ではおもに山雪が描いたっぽいですね。

 

「竹虎図」、「梅花遊禽図」、「籬(まがき)草花図」などの金碧障壁画のほか、水墨画や杉戸絵も含め、全152面が重要文化財に指定されています。
江戸初期に建てられたにもかかわらず、1788年(天明8年)の「天明の大火」の被害もまぬがれてこうして残っているのは二条城二の丸御殿と並んで京都の奇跡のひとつですね。

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公式ガイドブックより

この「竹虎図」に描かれているのは、左にいる3頭のうち真ん中の大きいのが山楽で、その左にいるのが山雪、右の子虎は山雪の息子の永と、京狩野の三代を描いたとされてます。右にいる豹は山楽の奥さんか、山雪の奥さん(山楽の娘)ではないかと。
「豹が必ずしも虎のメスとして描かれているわけじゃない」というのは二条城で聞いた話ですが、この絵についてはメスと考えてよさそうですね。
(なお反対側の襖絵にも虎が1頭いましたが、こっちはとくに誰をモチーフにしたとかはないそうです)

じつはぜんぶ複製画

ちなみに今回展示されているのはすべて複製で、本物は京都国立博物館にあるそうです。二条城二の丸御殿もそうだけど複製画なら撮影オッケーにしてくれればいいのにと思うのは贅沢なのかな。あ、水墨画の一部だけオリジナルでした。

なお複製といっても、ただのカラーコピーじゃないんです。Canon(キヤノン)が自社製の最先端デジタルカメラで撮影した画像(3億万画素以上!)を、これまた自社製の高性能プリンターで出力し、さらにその上からオリジナル作品と同様に職人が金箔を貼っているので、ぼくのような素人にはぜんぜん見分けがつきません。
Canonの特設サイトに写真がありますが、美しいです。

global.canon

global.canon

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「かぎりなく本物に近い複製品」と案内されたけど、ウソじゃないです。
もちろん本物を見たいという気持ちもやっぱりあるので、それは京都国立博物館や天球院での特別展示の機会を待つしかないですね。

方丈の部屋ごとの役割など

「方丈」はもともと1丈4方の正方形の建物でした。
1丈4=10尺ですから、約3.03m四方ということになります。古典で習った鴨長明の『方丈記』は方丈の庵で書いたことからつけられた題名です。

ただ、いつからか(狭くて客が収容できないことから)広くなり、部屋数も複数になり、本堂と同義になっていったようです。
禅宗の方丈は3部屋ずつ南北に2列並び、合計6部屋で構成されることが多いそうです。そして各部屋の役割も決まっているとか。御殿建築にちょっと似てますね。

以下の図は天球院の本堂をイメージして書きました。

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玄関から入って最初にあるのが「礼(らい)の間」で、いわゆる応接室です。
そのとなりがメインの部屋である「室中(しっちゅう)」でこの奥に仏像や位牌を安置する「仏間(仏堂)」があります。さらに進むと「檀那(だんな)の間」で、ここはお寺の檀那を通す部屋、ようはスポンサー用の特別応接室といったところでしょうか。

「檀那の間」の奥にあるのは「衣鉢(えはつ)の間」で、ここは住職のプライベート空間なので天球院でも水墨画「山水人物図」が描かれていました。そして「仏間」をはさんで反対側にあるのが「書院の間」です。

金碧障壁画は手前の3部屋(礼の間、室中、檀那の間)に描かれています。
こういうちょっとしたルールを知ることができると、お寺めぐりが楽しくなりますよね。

血天井

天球院の本堂廊下には血天井があります。
これは「関ヶ原の戦い」の前哨戦で落城した伏見城の床板だそうです。鳥居元忠らが討死した籠城戦ですね。
足で踏む床板として使っては供養にならないからと、天井に上げています。

京都のいくつかのお寺にはこうした伏見城の床板が天井に貼られてるそうです。
もしかしたらここは写真撮影オッケーだったかもしれません。確認するのを忘れてました。庭はオッケーといわれたんですけどね。

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金碧障壁画がデザインされた御朱印帳とクリアファイルが買えます

もし天球院を訪問されるなら、おみやげにぜひオススメしたいのが3つの金碧障壁画がデザインされた御朱印帳(3種類、1冊2000円)とクリアファイル(4種類、1枚500円)です。

ぼくはクリアファイルはぜんぶ買いました。御朱印帳は「竹虎図」です。

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御朱印帳を買うと御朱印を書いてもらえるんですね。

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攻城団でもオリジナルの御朱印帳をつくろうと思ってるので、どう使い分けようかな。

もやっとしていること(誰か教えて)

天球院は誰が建立したのか?

天球院の紹介では「天久院が1631年(寛永8年)に建立した塔頭です」と書いてるのもあるし、「岡山藩主・池田光政が伯母である天久院のために建立した」ともありますが、どちらが正しいのでしょうか。

公式サイトでは「自らの菩提寺として建立した」とあるので、光政はあくまでもスポンサーなのかな。でも京都市が建てている、門前にある案内板には「岡山藩主池田光政兄弟が、大叔母天久院のために、寛永八年(一六三一)から同十二年(一六三五)にかけて建立した寺院」とあるんですよね。

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天「球」院になったのはいつ?

珍しい球体の石垣として有名な鳥取城の「天球丸」の名前も天久院に由来するそうです。

もともと天久院は初代若桜藩主・山崎家盛に嫁いでいましたが子どもに恵まれず離縁され、池田家に戻ります(子に恵まれなかったのではなく、人質に出されるのを拒否して実家に帰った説なども)。
直接、鳥取城にやってきたかはわからないのですが、たぶん兄・輝政の吉田城にいったんじゃないかと思います。鳥取城は若桜城から近いので寄ったかもしれません。ともあれ、天久院は自分の弟で初代鳥取藩主となった池田長吉のいる鳥取城にやってきて、ここに彼女の居所があったことから、「天球丸」と名付けられたそうです。

ただね、ここで話がややこしくなるというか、現地ではお寺を建立する際に地中から「球」が掘り出されたことから「天球院」にしたと案内されました。
一方、天久院が山崎家盛と離縁したのは「関ヶ原の戦い」前だから鳥取城で暮らしたのは1600年(慶長5年)頃です。だとすると鳥取城の「天球丸」ももともとは「天久丸」と呼ばれていて、1631年(寛永8年)以降に漢字が変わったということなのでしょうか。

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それにしても公式サイトのホームページ感がすごいですね。

tenq-inn.com

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