攻城団ブログ

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【京の冬の旅】妙心寺鱗勝院で春日局の御霊屋と海北友雪の水墨画等を見てきた

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前回の天球院につづいて、鱗勝院も特別公開の対象になっています。
(なんと8年ぶりの公開だそうです)

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ここは春日局の菩提寺で、3代将軍・徳川家光が創建した寺です。

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方丈の三部屋には海北友松の息子、海北友雪による「雲龍図」「山水図」「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)・西湖図」の水墨画が描かれています。これは複製ではなく本物でした。
とくに室中に描かれた「雲龍図」は間近まで寄って見れます。

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「京の冬の旅」パンフレットより

天球院の室中には金碧障壁画の「竹虎図」が描いてましたけど、こちらには水墨画とお寺ごとにいろいろちがうんですね。このへんはもっといろんなお寺をまわっていくとルールとかパターンが見えていくのかな。これから勉強していきたいところです。

春日局の父親は斎藤利三ですが、利三は明智光秀の重臣であったため彼女が幼少の頃(3歳頃)に処刑されています。その後、彼女らを庇護したのが海北友松で、その恩を忘れなかった春日局が海北友雪を引き立てたようです。

斎藤福から春日局、そして家光との関係

ちなみに「春日局」の名前は後水尾天皇や中宮和子に拝謁するために御所にあがる際にいただいた称号で、名前は「斎藤福」です。

その後、稲葉正成の後妻となり、さらに徳川家光の乳母となります。家光が将軍になったことで「将軍様御局」として大奥を取り仕切り、とくに大御台所であった江(崇源院)が亡くなったあとは絶大な権力を誇りました。

家光が実母の江ではなく、春日局を信頼したのは、両親(徳川秀忠と江)が自分ではなく弟の国松(徳川忠長)を溺愛し、ないがしろにされたからといわれてます。
『春日局略譜』によれば、家光は自害を考えたほどだったそうで、それを思いとどまらせたのが春日局だったと。
(じつは家光の実母が彼女だという説もありますけどね)

家光は春日局に多くのものを与えていますが、そのうちのひとつがこの「百椿図屏風」です。

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麟祥院パンフレットより

ほかにも聴秋閣を家光から賜っていますね。
家光が上洛する際に二条城内に建てられた「三笠閣」が、春日局に下賜され、彼女の孫にあたる老中・稲葉正則の江戸屋敷に移築されています。その後、所有者を変えつつ、原富太郎が所有することになり名称も「聴秋閣」と改められています。
ぼくもまだ見たことがないんですけど、貴重な二条城の現存遺構ですので一度見てみたいです。

www.sankeien.or.jp

後水尾天皇から下賜された御霊屋こそ必見

海北友雪の障壁画や家光から下賜された「百椿図屏風」も素晴らしいのですが、やはり麟祥院ではこの御霊屋を見たいですね。

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もともとはこけら葺きだったそうです。
詳細は不明点もあるので後述しますが、わかっていることはこの御霊屋は仙洞御所で釣殿(つりどの)として使われた建物で、後水尾天皇が春日局に下賜しています。

内部は撮影不可なのですが、小堀遠州作と伝わる木造と狩野貞信が描いた障壁画があります。

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公式ガイドブックより

また天蓋が備え付けられていたり、天井は最高格式の折上小組格天井(二重折上ではなかった)とほんとにすごいので、生で見れてよかったです。
狩野貞信は1623年(元和9年)に亡くなっているので、だとするとこの絵はいつ描かれたものなのでしょうね。現地では「おお、貞信だ!」とテンションが上ってしまって時系列を整理する余裕がなかったです。

家に帰ってから調べてみると、これは「楼閣山水図舞良戸貼付」という作品で、『花園大学歴史博物館資料叢書 第一輯 妙心寺麟祥院所蔵絵画資料目録』(花園大学歴史博物館編集・発行)によれば、1620年(元和6年)から1621年(元和7年)頃に描かれたものだそうです。貞信の貴重な現存作品です。

御霊屋自体も小堀遠州がつくったといわれています。
後水尾天皇が二条城に滞在した寛永行幸のための増改築工事において、小堀遠州は普請奉行をつとめています。その後、行幸御殿を仙洞御所へ移築する際の責任者でもあったので(現在も仙洞御所の庭園には一部だけ小堀遠州が作庭した箇所が残っています)釣殿として使われたこの建物にかかわっていることはまちがいなさそうです。

ちなみに「釣殿」というのは、寝殿造りにおいて池に面して設けられた建物のことです。主殿から池に向かって張り出した廊下の先にあり、水面にかかるように建てられています。
クーラーのない時代ですから、ここで涼んでたんですね。舟遊びの際の発着場としても使っていたようです。

外観は写真を撮っていいよということだったので、(空いてたこともあり)撮りまくりました。

まず目立つのがこの「三」の漢字が書かれた家紋です。方丈にもたくさんありました。
これは「折敷(おしき)に三文字」といって、稲葉家の家紋です。大三島神社の神紋と同じで、稲葉家の先祖はそっちのほうだそうです。ガイドの方は海賊みたいなものといってましたので、村上海賊に近いのかも。

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この蟇股も極彩色で美しかったんでしょうね。

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金具類は金張りだったそうですが、いまは剥げて下地の銅板が酸化して緑青になってます。

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一部だけ修復されているので、比較ができます。

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もともと御所にあった建物なので、菊紋がたくさんありますが、これは「二十四弁菊花紋」といって東福門院の紋章らしいです。
ただガイドの方の話によれば「24なんだけど、数がけっこうバラバラなんだよねえ」とおっしゃってたので、家に帰ってから写真を拡大して数えてみました。
(現地ではさわれないので数えづらい)

そしたら少なくとも24のはひとつもなかったですね。
ただ東福門院和子の菩提寺・光雲寺にある菊紋は十六裏菊なのでガイドの説明がまちがってる可能性もあるかも。まあ数が揃ってないのはまちがいないんだけど。

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ちなみに麟祥院には狩野探幽が描いた春日局の肖像画が所蔵されているそうですが、それは今回の特別公開の対象にはなってませんでした。

淀城のしゃちほこが

稲葉氏は幕末、淀城の城主をつとめていました。「鳥羽・伏見の戦い」において淀藩の裏切りが幕府軍敗退の一因となるわけですが、その淀城の火の見櫓に上げられていたしゃちほこが麟祥院の庭園にあります。

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御霊屋の来歴

ガイドの方から聞いた話をそのまま書くと「麟祥院の御霊屋は後水尾天皇から春日局が下賜されたもので、仙洞御所の釣殿でした。ただし春日局が存命中は二条城に移築されていた」ということでした。
「京の冬の旅」のパンフレットには「かつては能舞台として使われていたもので」と書いてあります。

さらにぼくが知ってることやわかってることを加えるなら、こんなところ。

  • 1628年(寛永3年)、寛永行幸の際、二条城には能舞台があった(ただし庭園には釣殿もあった)
  • 1627年(寛永4年)、寛永行幸のあと、行幸御殿は仙洞御所へ移築された
  • 1629年(寛永6年)、春日局が上洛し、「春日局」を下賜される
  • 1632年(寛永9年)、春日局が再度上洛
  • 1634年(寛永11年)、家光が上洛。その後は幕末まで将軍の上洛はなかった
  • 同年、家光が春日局のために鱗勝院を建立
  • 1643年(寛永20年)、春日局死去
  • 1680年(延宝8年)、後水尾天皇の崩御
  • 1788年(天明8年)、天明の大火で御所も焼失

そうなると疑問が残ります。

  • 仙洞御所の釣殿は二条城の行幸御殿を移築したものの一部なのか、それとも新築なのか
  • 能舞台として使われたのはいつなのか(寛永行幸字? それとも下賜されたあと?)

釣殿と御霊屋はサイズ的には近いし、天皇から下賜された建物を改築するとかはないと思うので、おそらくは

寛永行幸にあわせて二条城内に建てられた能舞台

仙洞御所の造営時に釣殿として移築(このとき大幅に改築)

(後水尾天皇から下賜される)

二条城に移築

(春日局の死去)

麟祥院に御霊屋として移築

という流れだと思います。

この御霊屋はいつ下賜されたのか、については、1634年(寛永11年)の麟祥院建立時か、1629年(寛永6年)または1632年(寛永9年)の春日局上洛時あたりかなと思うのですが、いずれにせよ10年前後は二条城に置かれてたことになりますね。
二の丸庭園に釣殿として再移築されたのかなあ。これは問い合わせてみたいので、なにかわかったら追記します。

もしなんらかの情報をお持ちの方がいたらぜひ教えてください。

kojodan.jp

東京にも麟祥院がある?

春日局の墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺、京都市の金戒光明寺で、じつは京都の麟祥院は春日局の菩提寺ではありますが、墓所はありません。
(パンフレットによれば、柳生兵庫助の墓があるそうです)

東京の「春日通り」の由来が春日局であることは知ってましたが、湯島にお墓があったんですね。
けっこう近く(徒歩圏内)に住んでたことがあるんだけどぜんぜん知りませんでした。

www.rinshouin.jp

紹太寺は春日局の嫡孫・稲葉正則が創建した寺です。「稲葉一族の墓所」として小田原市の文化財に指定されています。
正則は春日局の支援もあり、35歳で老中にまで出世していますので、そりゃ丁重に弔うよなあ。

www.choukouzan.com

金戒光明寺には江や忠長、あと山中鹿之助の墓所もあるみたいですね。家康が知恩院を二条城のバックアップとして城構えにしたことは知っていましたが、この金戒光明寺もそうだったんですね。
ここもいったことがないので、そのうちいってみよう。

www.kurodani.jp

こんなふうに、どこかに出かける→いろいろ調べる→また別のところに行きたくなる、という興味のスパイラルができていくのはいいですね。

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