攻城団ブログ

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こーたさんの「史跡犬山城跡指定記念シンポジウム 〜史跡犬山城跡のこれから〜」参加レポート

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団員のこーたさんに「史跡犬山城跡指定記念シンポジウム」の参加レポートを寄稿していただきました。かなり詳細に書いていただいたので、読み応えがあります!

現存最古の天守と言われる国宝犬山城ですが、建造物の天守だけが国宝で、城跡は何の指定も受けておらず、昨年2018年2月に国指定史跡となりました。それを記念して今回のシンポジウムが開催されたということです。
私は攻城団の「お城ニュース」で開催を知りました。事前申し込みが必要でしたが、犬山市の担当課に電話したところ開催前日でも間に合いました。幸い定員に余裕があったのでしょう。とはいえ客席はほぼ一杯になっていました。

news.kojodan.jp

会場 :犬山国際観光センター フロイデ 4階ホール
日時 :平成31年2月9日 14時~16時30分
入場料:無料
主催 :犬山市教育委員会

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フロイデ 1階ロビー

同ロビーには「札幌雪まつり」で犬山城の雪像が作られたときの模型展示もありました。

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犬山城白帝文庫理事長の成瀬淳子さんもお見えになり、挨拶がありました。

第1部 基調講演「犬山城の魅力」

基調講演は、名古屋工業大学大学院教授の麓和義さん。
城の縄張りや構造などを初心者にもわかりやすく説明してくださいました。
犬山城天守は前期望楼型の城郭として見るべきところが多い。特に私が興味を持ったのが、柱の加工痕(かこうこん)。1階・2階の柱は、釿(ちょうな)や槍鉋(やりがんな)、大鋸(おが)で表面を削って木材にしている。そのため加工痕は粗い。3階・4階は槍鉋や現在のような台鉋(だいがんな)による平滑な仕上げになっている。工具の変遷が見て取れる。そんな面白さも犬山城が現存最古と言われるからこそ。

──特に「加工痕」の話題は第2部でも盛り上がりました。

第2部 座談会

第2部は麓さん含めパネリスト3人のお話でした。
高瀬要一さん(元 奈良文化研究所文化遺産部長)、山村亜季さん(京都大学大学院准教授)と、コーディネーターは地元愛知県犬山市出身の赤塚次郎さん。

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右から麓先生、高瀬先生、山村先生。左端がコーディネーターの赤塚先生

高瀬先生は、各地の文化財保存活用計画に関わられた方です。
文化財をどう認識し、厳格に保存すべき部分と柔軟に活用を考える部分を分けて考える。そのためには市民の考えをまとめ、共有した計画を作ること、というお話でした。

──地元の人が誇りに思える、その気持ちを育てていけるような保存活用計画を作っていかなくては、という言葉は犬山の人たちへのエールになったでしょう。

山村先生は、NHK『ブラタモリ』などにも出演される歴史地理学の専門家です。
犬山は尾張と美濃の国境(くにざかい)にあり、戦国期を越え、木曽木材の水運中継地としての経済発展、徳川御三家尾張藩の付家老(つけがろう)という立ち位置で、ステータスもありながらコンパクトに残ったまま明治維新まで続いた、というお話でした。
そして「これから観光はもっと知的にスマートになっていく」とおっしゃり、城下町への思い・観光客への期待を述べられました。

──まさにDMO(Destination Marketing / Management Organization)視点の話で、攻城団がプレゼンテーションしていることのようだと思いました。

麓先生から、犬山城は天守こそ国宝だが、城跡全体としては昨年2018年(平成30年)まで、国指定史跡でなかったばかりか、県史跡・市史跡ですらなかったという話には、驚きました。

国指定史跡となるため、天守以外手付かずだった周囲の発掘調査をしたことで細部の特徴もわかってきた。美しいとか眺望がいいとか、観光も大切だが、加工痕など細部に興味を持ったらきっと面白くなる。全体だけを漫然と見るのでなく細部の違いに気づいてもらい、魅力に気づいてもらえるといい。

──廃城後の改変が多いとみなされていたからという話でしたが、長らく成瀬家個人所有の城だったため調査できなかったのでしょう。天守が国宝ならそれでいいじゃない?と気にしていなかったのかもしれません。ところが松本市などとともに「日本の近世城郭の天守群」としてユネスコ世界遺産を目指そうとなった。それでは不都合になってきた。だから急いで発掘調査したという事情があったように拝聴しました。

コーディネーターの赤塚先生は、考古学者らしい視点と研究保護NPOの理事らしいお話で締めくくってくださいました。

会場『フロイデ』の近くに田中天神の森という伝承地がある。私はここが犬山の町の始まりの地と思っている。そこから見て乾(いぬい)の方向に天守のある城山がある。乾山(いぬい)山と呼ばれ、それが犬山の地名の起源になったと思う。
さらに神代(かみよ)の時代にさかのぼれば、犬山城の前に存在した木ノ下城から見たとき、艮(うしとら)つまり鬼門の方向には「東之宮古墳(1975年、国指定史跡)」がある。(今、松の丸にある)針綱神社奉納の「犬山祭」にもつながってくる。
1800年前から、戦国時代、江戸時代、そして今の私たち。全部つながっている。人々がいて、町を作り、物語をつないで、犬山の特色となってきた。私たちはずっと自問してこれからの町づくりを進めていけたらいい。

──「加工痕」については、地元犬山出身で考古学を学んだ赤塚先生でさえ、気にしたことがなかったと会場の笑いを誘いました。麓先生の話を今日聞いて、初めて興味を持ち、一緒に調査したくなったとおっしゃっていました。きっと会場にいた人全員が同感したことでしょう。

当日配布されたリーフレットに、史跡の概要と指定理由が掲載されていました。

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当日配布されたシンポジウム資料。裏表紙上部拡大

個人的には、シンポジウム直前に駆け足で見てきた「犬山丸の内緑地」が、まさに指定範囲に含まれていたので、おっと思いました。
しかし現状は、この丸の内緑地に保存するような遺構はなく、おかしな活用のされ方(察するに、大勢の小中学生が遠足などで犬山城へ来たときの、バス乗降のための集合場所)になってしまっているので、今後史実に基づいた活用計画が立てられ、実行されていくでしょうね。犬山市民や歴史専門家・愛好家の知見を集めたものに……。

せっかくなので詳細に報告します!

ここまでなるべく短めにまとめてみました。
ですが、先生方のせっかくのお話──特に「かこうこん」について語る麓先生、歴史目線でなにげない町めぐりすることをスマートな観光という山村先生の見解──は、攻城団のみなさまなら「あっぱれ!」を連打したくなるような内容でしたので、以下に書き起こした全文も掲載します。長文ですがご容赦ください。

第1部 基調講演「犬山城の魅力」

第1部は麓和義さん(名古屋工業大学大学院教授)の基調講演、「犬山城の魅力」です。

researcher.nitech.ac.jp

縄張りについて

・曲輪(くるわ)の呼称が変わってきたことが、古絵図からわかる。正保4年(1647年)の絵図は一般的な本丸、二の丸、三の丸となっている。天和元年(1681年)の絵図になると、本丸はそのままだが、二の丸が杉の丸・桐の丸・樅(もみ)の丸に分けられ、三の丸は松の丸と描かれている。
〔感想〕MacOSがネコ科の動物シリーズだったり、Androidのバージョンもスイーツになっていたりするようなものですね。数字よりも愛着がわくのは、時代や人種を超えて感じる感覚なのかもしれません。

・杉の丸・桐の丸・樅の丸・松の丸と下がっており、大手道が枡形虎口(ますがたこぐち)になっていて敵が攻めてきたら門を閉めて閉じ込められる仕掛けになっていた。

・櫓(やぐら)の名称も、一般的には巽(たつみ)櫓などと方位を示す場合が多いが、犬山城では鉄砲櫓・弓櫓など用途を冠したものになっている。
〔感想〕城主や家臣たちにとってはわかりやすくても、敵にとっては何が格納されているか筒抜けで心配にならなかったのでしょうか。

・建造物としての遺構は天守のほか大手筋脇の石垣くらいしかないものの、犬山市の発掘調査により雑草や樹木の伐採・手入れがされたことで、明治維新後の改変がありながらも切岸(きりぎし)や堀がよく残っていることが認められ、国指定史跡となった。

・大手道の反対側、木曽川からの急峻な搦手口(からめてぐち)側には七曲道(ななまがりみち)があったこともわかっている。現在は樹木に覆われ、とても人が入れる状態ではない。

・松の丸御殿を絵図を元に模型で復元した。さらに西御殿・三光寺御殿も模型復元。絵図に描かれた屋根の色の違いから、瓦葺(かわらぶき)か杮(こけら)葺かを判断した。そのほか廃城前の古写真や図面なども残っており参考にした。

・宗門櫓(桐の丸南東隅櫓)は移築され、江南市の森家の土蔵になっている。ほかにもいくつかの櫓や門、鯱が(犬山市内外に)今も残っている。

天守について

・(一般的な説明から)安土城が築城されてから江戸城までの約60年間で、天守は意匠的・技術的に発達した。望楼型と層塔型がある。望楼という名前が、殿様が景色を眺めるために作ったような誤解を招くので、高楼型と呼んだほうがいいのではという意見もある。さらに様式を細分化すると時期と形状から前期望楼型(犬山城など)と後期望楼型(姫路城など)、石垣の上から規則的に少しずつ各階が小さくなっていく前期層塔型(江戸城など)と1重目2重目が同じ大きさでそれ以上から小さくなっていく後期層塔型(名古屋城など)に分けられる。一番上の楼は、仏像を安置するための宗教的な空間。楼閣4階部分に穴を開け、3階屋根裏部屋に明かりが入るようにした。そのため屋根の数と階数が異なり、高楼型は外観より1階多い。

・犬山城を平面で見ると、1階東面の付櫓(つけやぐら)側だけ角が斜めになっている。これは石垣を積む技術が未熟で、当時は正方形に積み上げることが難しかった。石垣の辺にあわせて1階を載せて築城したため。2階以上はきちんと正方形になっている。じつは松本城も菱形になっている。
〔感想〕同時期に築城されたという丸岡城も、石垣の積み上げ技術が正確でない時代のものなので、腰庇(こしびさし)を設けて雨水の浸水を防いだ、とテレビ番組で観た後だったのでよくわかりました。しかし犬山城の場合、付櫓があるからあえて斜めにしたと思えたので、自分の考えは違っていたんですね。

・通し柱で1階・2階をつなぐことで強さを保ち、その上に3階・4階が載る二重構造になっている。犬山城は当初1階・2階だけで望楼部分はなかった。杮葺だった。

木材の加工技術について

・1階・2階の柱は、釿(ちょうな)や槍鉋(やりがんな)、大鋸(おが)で表面を削って木材にしている。そのため加工痕(かこうこん)は粗い。3階・4階は槍鉋や現在のような台鉋(だいがんな)による平滑な仕上げになっている。普通の人は気づかない。気にしていないこともあるが、ただ眺めても見えないため。私は懐中電灯を使い、下からライトを当てて観察調査している。すると私の様子を見た観光客が周りを囲んで「何してるんですか」と聞かれる。「こうして木の肌を見ていると400年前の職人の加工した跡が見えるんですよ」と答えると、皆さん感心して興味を持ってくださる。やっている私が一番うれしい時。ロマンを感じる。松本城や彦根城にも釿ではつった跡がある。たいてい刃こぼれしている。姫路城にもさまざまな加工痕がある。松江城痕は釿でも非常に細かい。江戸時代になるとほとんどの城で台鉋が使われるようになった。表面が平滑になってくる。

・こうしたことを調べるようになったきっかけが犬山城だった。ちょうど工具の転換期にあったため、いろいろな加工痕が見られる。そんな面白さも犬山城が現存最古と言われるからこそ。
〔感想〕工学博士で日本建築史・文化財保存修復の専門家らしい説明で、私もこれから天守や櫓内部を見る楽しみ方が広がりました。

第2部 座談会

第2部は座談会です。基調講演をされた麓さん含め、パネリストは計3人。

nrid.nii.ac.jp

nrid.nii.ac.jp

どこかでお見かけした女性だと思ったのですが、NHK『ブラタモリ』に出演・解説されたこともある人でした。ご本人も「……最近は『ブラタモリ』のような番組が人気で……」とおっしゃっていたのに、そのときは頭の中で結びつきませんでした。

コーディネーターは地元愛知県犬山出身の赤塚次郎さん(NPO法人邇波の里・文化遺産ネットワーク 理事長)。元愛知県埋蔵文化財センター副センター長で、犬山市文化財保護審議会副会長なども務めておられます。

niwasato.net

なんと同NPOは木ノ下城近く、旧堀部家住宅にあるようです。
ウェブサイトを拝見すると「木之下城伝承館・堀部邸」となっており、借りることもできるようです。

題目は「史跡としての保存と活用」。3パートに分け、話を進めてくださいました。

1.犬山城及び城下町の歴史的・学術的な価値と史跡指定

f:id:kojodan:20190302142327p:plain【赤塚】
犬山は核となるものがあって拡大してきた町ではありません。犬山城以前に木ノ下城があって、さらにその前にはこの会場近くに田中天神の森があって、私はそこが始まりの地だと思っていますけれど、町ごと移転しながら、そのつどそこに何か意味を持って発展してきた、というのがほかの城下町と違うと思います。このような町の話は、山村先生にまずお願いします。

f:id:kojodan:20190302142540p:plain【山村】
犬山城と城下町にとって重要な点は、まずここが尾張と美濃の国境(くにざかい)の町だということです。一国一城令が発せられた江戸時代においても、尾張の国に名古屋城だけでなくもう一つ、犬山城を残すことが許された地勢学的な理由があると言えます。木曽川からより美しく見えるのは国境の城という眼で見てしまうからもあるでしょうね。
次に、木曽川は上流に木曽山地があり、豊かな木材が下流の名古屋へ運ばれる輸送中継地として犬山で経済が動き、町が発展しました。
そして領主になった成瀬氏の特殊性も考えておかないといけません。尾張藩の付家老(つけがろう)というのは、尾張藩の家臣ではなく将軍から直々に御三家に付けられた家老です。ステータスがあるんですね。そうしたことから、成瀬氏の家臣武家屋敷も犬山のほかに名古屋や江戸、京にも分かれていました。人口が分散していたことで城下町が拡大せず小ぢんまりとした状態のまま幕末までいきました。こうした要素、経済都市・政治都市としての側面が、犬山城や犬山の城下町には投影されているでしょう。
ところで犬山と名古屋、じつは地形的には似ているところがあります。川があり、そこから少し高い台地状の平らな土地を成形して城下町にしています。(犬山は木曽川がありますが)名古屋の場合は(犬山にとっての木曽川の代わりに)伊勢湾から堀川という運河を引き、流通の便を良くしました。
違うのは、先ほど赤塚先生がおっしゃられたように、犬山は中世から連続している町ということです。名古屋の場合も前身になるような城はあるのですが限られた部分的な話で、(清洲から町ごと越して)新たに造られました。犬山は中世からの城や寺があり、変わりながら町ができました。国境の城の宿命として戦国時代はもちろん江戸時代に入っても、領主が何度も代わりましたが、そのつど断続的に整備・工事が行われ、歴史をつないで成瀬氏の時代になって完成に至ったということです。
こうしたことを踏まえて今の町を見ていくと、一本一本の道路にも深い意味があると思います。今、観光客でにぎわう本町通よりも、古い通りが大門町の台地の際側にあり、練屋町という通りも古くからある通りです。寺町のようになっている辺りも、名古屋のようにかき集めたのでなく、もとから中世からあった寺のそばにさらにお寺が集まってきたものです。
とかく犬山は天守が注目されがちですが、犬山城下町全体の動きを伴っているということが学問的には面白いところです。

f:id:kojodan:20190302142327p:plain【赤塚】
国境、コンパクト、……キーワードかなと思いますね。では城山について、もう一度麓先生に話をしてもらいたいと思いますが、先ほどの加工痕の話。私も考古学をやっていますので、すごく興味を持ってお話を聞かせてもらいました。

f:id:kojodan:20190302142714p:plain【麓】
ええ、いつもポケットに強力な懐中電灯を持って(照らして見て)います(笑)
近世の城は、その定義にもよりますが二百何十城あると思います。そのうち現存12天守、これらはすべて国の重要文化財になっています。その中でも国宝が5天守。犬山城も天守は早くから国宝に認定されていました。
一方、城跡全体はというと、犬山城は国指定はおろか県にも、犬山市の指定すら受けていなかったのです。理由は、廃城後に改変された部分が非常に多いと見られてきたからかと思います。しかし、かつての城跡としての証拠となるようなものがすべてなくなったわけではなくて、調査により残されている部分がわかってきた。本来あった価値を再確認しながら、学術的な価値もあること、個性的なところも見えてきた。やはり文化財を指定するにあたってはたくさんあるもののひとつよりも、他にあまりないもののほうが保存価値があるわけで、犬山城跡には日本の城郭の変遷を見ていく上で注目すべき貴重な資料が残っている点が評価されたのだと思います。

f:id:kojodan:20190302142327p:plain【赤塚】
城山の中にまだまだ隠れた文化遺産が残っているわけですね。遺構を見える化して国指定史跡になった。城下町にも隠れた遺産がありそうですね。ということで、次のテーマ「保存と活用」につなげたいと思います。高瀬先生お願いします。

2.史跡の保存と活用について

f:id:kojodan:20190302142807p:plain【高瀬】
保存活用というとみなさん何と思いますか。簡単に言うと対象をどう認識するか、犬山城をみなさんがどう捉えていくかに始まります。
国指定の史跡は1850件を超えていると思います。これは近世の城だけでなく縄文時代の集落からいろいろ含まれた数字です。近世の城だけをとってみても地形も歴史も違う、変遷も現状も違う、と非常に個性的なんです。その個性的なものをどのように認識して、どこに価値を認めて、ここだけは厳格に守らなきゃいけない、あるいはこの部分は柔軟に考えていい、など保存に対する考え方を共有しようという作業が「保存活用計画」です。
具体例で言うと、奈良の平城宮跡は大正11年から史跡指定されていましたが、当時の人たちはどこを見て史跡と認めたかというと、平城宮は当時の状態はほぼ一面水田だったので、その水田のうち、高まりになって残っている範囲だけを痕跡と認識して定めていたんですね。方八町といって約1キロ四方しかない。大正当時の知識・意識では、地下遺構という考えがなかったので、地上に見えて認識できる範囲だけを保存しようとした。その土段の境目に御影石の石碑を埋めてしまったんです。悪意があってやってわけじゃなくて、保存する範囲を識別するためにしたことで仕方ないのですが。
犬山の場合も、これから現状変更は起こってくると思うんですね。いろんな申請が(国や市、管理団体に)上がってきたときに、基準をあらかじめみなさんで合意したものを持っていないと、そのつど対応してしまっては、全体としてバランスの取れたものにならない。国指定史跡の場合は保存活用計画をつくるように文化庁が決めています。みなさんの意識をまとめる作業が保存活用計画につながっていきます。

f:id:kojodan:20190302142327p:plain【赤塚】
誰かが決めるものでなく、みんなで犬山のお城をどう意識していくか、どう価値を決めていくか。基本中の「キ」が保存活用計画というものなんですね。
麓先生にお聞きしますが、犬山城の場合、絵図や写真などの資料は残っている、門などが犬山市内や隣の江南市などに移築されて残っている、これってすごいですね。何かやろうと思ったら、素材がたくさんあるのですから活用できそうですが。

f:id:kojodan:20190302142714p:plain【麓】
とても貴重なことです。私も関わって犬山城が史跡指定を受けるための発掘総合調査報告をまとめましたが、その段階では(発掘調査は)ほんの一部に過ぎないんです。この近くでも史跡小牧山城跡や岐阜城跡など、毎年のように発掘調査しては何か見つかるわけです。遺構があるとは限らなくて、この範囲には何もなかった、なくなってしまったということも調査の結果わかる場合もあるわけです。
文化財担当者が勝手に、このへんを掘ったらおもしろそうだといって場当たり的にやっているわけではないんですね。大きなビジョンをつくった上で、今年度はこの部分、来年度はどこ、というようにだんだんと範囲を変えて進めていきます。本来の価値がわかるように、計画的に進めるための基本的な重要な計画・資料作成したものが総合調査です。ちょっと質問の答えになっていないかな。

f:id:kojodan:20190302142327p:plain【赤塚】
いえ、ありがとうございます。

3.史跡犬山城跡の今後の活用に向けて

f:id:kojodan:20190302142327p:plain【赤塚】
では最後のテーマに移りましょう。もちろん結論は出ないと思いますが、いろんな人の意見を聞いて出し合って、進めていくことが重要だと思います。私は、城があり、町があり、祭りがあり、神事があり、人々のいろんな人生があって物語があって、犬山の歴史がつながってきたと思うんですね。そんな夢のような話も含めて、まず高瀬先生からどうぞ。

f:id:kojodan:20190302142807p:plain【高瀬】
個人的には、近世の城が「遺跡」として理解されていないと(少々残念に)感じます。おらが町の城ですから誇りでしょうし、観光地として復元して、当時は立派だったと伝えるのも大事です。犬山は外国人観光客も多くて経済効果も大きいでしょうけど、それだけじゃない。三橋美智也の『古城』という歌がありましたけれども、あの歌は石垣が少し崩れた哀愁が共感を呼んでいるのだと思います。城跡にはそういう機能が求められていると思います。
今後、復元計画も出てくると思いますが、朽ちた状態のまま残すことで往時を偲(しの)ぶのも大事じゃないですか。そこが「保存活用計画」の、守るところは守る、柔らかく考えていいところは現状変更をしやくするといった、ルール作りになります。

f:id:kojodan:20190302142714p:plain【麓】
赤塚先生は犬山のお生まれで、しかも考古学者という眼を持っていらっしゃる方にあえて伺いますけど、今まで加工痕を気に留めたことはありますか?

f:id:kojodan:20190302142327p:plain【赤塚】
すいません。木の加工痕は全く興味がなかったです。(会場から笑い)

f:id:kojodan:20190302142714p:plain【麓】
私だってそうでした。最初にそれが見えたときにものすごくおもしろくなって、それから日本中の天守の加工痕を見て回るようになりました。犬山城は木曽川対岸から見るのが美しいとか、天守の急な階段をふーふー言いながらのぼって「昔の人もこんなとこのぼったのか」とか、そして望楼に着いて「素晴らしい景色だな」と言って降りてくる。それもいいんですけど、観光ボランティアの方も、加工痕の話をしてもらうといいんですけどね。
先ほど話しましたけど、私が加工痕を見ているとみなさんが「何をしてるんですか」と興味を持ってくれるんです。400年以上も前に木を加工した大工と会話をしているような気持ちになれる。ロマンがあるんですよ。もううれしくてうれしくて大学なんか帰りたくなくなってしまう。
切岸も、ちょっと放っておくと草木がうっそうと茂ってきて見えなくなってしまう。手入れをして見えてくると観光客も見てくださるわけです。曲輪もそうです。杉の丸は大手道の所に券売所があって、観光客はそのまま本丸へ進んでしまうから今は杉の丸に入ることはできない。七曲道も、今は危険で立ち入り禁止区域にするしかないが、整備していずれは見られるようになるといい。
そうして細部が見えてきて、ただ在っても気づいてもらえませんから学術的な解説もあると、ますます犬山城の魅力が際立ってくる。いい活用ができると思います。

f:id:kojodan:20190302142327p:plain【赤塚】
なるほど。大げさに考えなくても、在るものを見える化して、マンパワーで伝え、継続して、維持していくか、ということでしょうね。では城下町のほうから考えていくと、山村先生、どうでしょうね。

f:id:kojodan:20190302142540p:plain【山村】
今、私たちが見ている犬山の町は、近世、さらにさかのぼって中世からつながっています。時代を超えた、歴史を意識できるような活用ができたら、と思います。
犬山城、白帝文庫には絵図もよく保存されていて、たとえば城郭内の隅々に足軽屋敷があったことがわかります。それがのちの時代の絵図では端のほうに追いやられていくことも可視的なものですから、専門家でなくてもわかるんですよね。切岸であるとか七曲りであるとか、武家屋敷もお城の中、神社の辺りまであったことが描かれています。こうしたものをうまく使っていくことが大事なんだなと思います。
現代の人が400年前の人と同じように行き来しながら歩くことができるような素材が各所にあります。最近は『ブラタモリ』のような歴史と地理、両者を一体的に見て町歩きしましょうという番組が人気です。あの番組のおもしろさは、日ごろ見慣れているどうでもいいと思っていた崖にじつはすごい意味があるとか、ちょっとした溝がすごい堀だったとか、当たり前のように見えている風景の中にじつは価値があるという「再発見」だと思うんですね。それは地元の人が気づかずにいて、外から来た人が、そうなんだよと言って初めて知るということもありますし、あるいは地元の人でも年配の方は昔はそうだったという情報をお持ちでも、若い人はまったく知らなかったということもあります。そういった再発見のおもしろさを、もっと城も城下町も、自分たちで見つけていく仕組みがあったらなと思います。
私は研究者として城や町歩きをしていますけれども、まだまだ外部の人間で時間も限られます。私以上に多くの発見を、地元に住んでいる皆さんならできるはず、です。それができる素材がここの町にはたくさんあります。その発見を生かす形が、教育なのか観光なのか、地域おこしになるのか、町づくりかわかりませんが、いろんな形で転換していくことができますので、工夫次第かなと思います。

f:id:kojodan:20190302142327p:plain【赤塚】
みなさん、すぐに行動しましょう。動きましょう。保存活用計画に生かしてもらいましょう。すばらしい場所です、ここは。最後にパネラーのみなさんから一言ずつもらって終わりにしたいと思います。

f:id:kojodan:20190302142807p:plain【高瀬】
地元の人が誇りに思えることが大事で、そのような気持ちを育てていけるような保存活用計画を作っていかなきゃいけないと思っています。

f:id:kojodan:20190302142540p:plain【山村】
城下町は、小さなものも含めると全国に400を超えると言われています。この地域のみなさんにとって国史跡の重要性はありますが、そうでない城下町にも知らず知らずのうちに行っているんです。この国に暮らしている国民が、城郭や城下町を観光目線だけでなく歴史価値を見つけるおもしろさに気づいて、誇りに思い、外国人や後世の人たちに伝えていけるといいですね。
犬山城下町を見ると同時に名古屋を見る。名古屋を見ると同時に岐阜を見る。そして大垣を見て(豊橋市の)吉田(城)を見て、岡崎を見て(刈谷市の)刈屋(城)を見る。桑名も見る。ずーっと見ていくと、この犬山がほかと違ったどんな価値があるのか自ずと見えてきます。
地元の人にとっても一般国民にとっても、すごくおもしろい知的な観光ですよね。これからは観光ってもっとスマートに変わっていくと思うんです。体を動かしながら、頭を使いながら、おいしいものも食べながら、人生を豊かにする、そうした観光の在り方になっていくと思うので、犬山がほか(の城下町)ともつなげながら活用できたらなと思います。

f:id:kojodan:20190302142714p:plain【麓】
犬山は、以前から天守が国宝で、昨年に城跡が国史跡になって、その範囲はこれから拡張されていくのかなと思います。さらにユネスコの世界遺産も目指しています。もう単体だけでの登録は難しくなっています。これは世界中そうで、共通の要素を持ったグループでの登録という動きに変わってきています。そこで「日本の近世城郭の天守群」というくくりでの登録を目指しています。
姫路城はもう世界遺産になっているため、静観しているような状況ですが、松本市と松江市は非常に熱心に犬山と共同で活動を展開しています。彦根はもう単独で暫定リストに入っているので、単独でいくか共同で進めるか迷っているような感じですね。
何年も前から「日本の近世城郭の天守群」での登録を目指して準備をしているんですが、犬山は天守だけが国宝だった。城跡は何もしていなかった。ほかの所はたいてい天守と同時に城跡も史跡指定されるものです。しかし、天守だけが城ではないわけで、曲輪があって御殿があって、軍事目的だけでなく政治の中心であり役所の機能もあった。だから(文化登録として)天守単体では駄目なんですね。(晴れて犬山城跡が)国指定史跡になって、これで世界遺産を目指す。そう簡単なことではないんです。ないのですが、ハードルをひとつずつ越えていこうとしています。

f:id:kojodan:20190302142327p:plain【赤塚】
では最後に私から。(冒頭にも話しましたが)この会場『フロイデ』の近くに田中天神の森という伝承地があります。私はここが犬山の町の始まりの地だと思っています。そこから見て左手、つまり乾(いぬい)の方向に城山、犬山城がある。乾山と呼ばれていたと思います。犬山の起源はここにあると思います。
さらに遥か昔、神代(かみよ)の時代の話。(今は松の丸にある)針綱(神社)さんにつながっていくと思うんですね。木ノ下城から見たときに、右手の方向、艮(うしとら)つまり鬼門の方向に線でつなぐと白山平(はくさんびら)の山頂に「東之宮古墳(1975年、国指定史跡)」がある。
1800年前の古墳、針綱神社の祭礼「犬山祭」、犬山城と城下町。それぞれ個別にあるんじゃなくて、全部つながっている。われわれ民衆の中に町衆の心の中に存在していて、それが犬山という町を作ってきて、犬山の特色となってきていると思うんですね。それをずっと自問してこれからの町づくりを進めていけば、きっと楽しい町づくりができるのかなと、勝手に思っています。これで座談会を終わります。

最後に

以上、第1部、第2部の模様をほぼ書き起こしました。
天守がなくても町を楽しめる何かを、遺構がなくても山歩きを楽しめる何かを見つけることから、ですかね。ボーっと生きてんじゃなくて、自分にとっての「かこうこん」を見つけたいな。

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