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マンガでわかる島津義弘

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今月21日は島津義弘の命日ということで、大久保ヤマト先生がかつて執筆された島津義弘のマンガを攻城団に転載させていただけることになりました。
(今回の再掲にあたり、セリフなどは少し修正していただいています)

島津義弘というと「鬼島津」の異名で知られ、上杉謙信本多忠勝立花宗茂などと並んで最強武将のひとりでもありますが、このマンガは有名な「島津の退き口」のシーンからはじまります。
「繰抜(くりぬき)」や「捨て奸(すてがまり)」などじっさいに用いられたとされる島津軍特有の戦法が紹介されていますので、勉強にもなりますね。

マンガの画像をクリックすると拡大サイズで読めます

 

初出:『歴史魂vol.6』(2012年3月)

なお、なぜ「関ヶ原の戦い」において島津軍がわずか1500しかいなかったのかというと(1000や3000の説もあり)、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去して以降、島津氏には御家騒動がつづいていたからです。1599年(慶長4年)には義弘の子である島津忠恒によって家老の伊集院忠棟が殺害され、そのため忠棟の嫡男・伊集院忠真が「庄内の乱」を起こすなど薩摩の政情は不安定でした。

秀吉の「九州征伐」において先に降伏したのは兄であり当主の島津義久でしたが(義弘は徹底抗戦を主張)、その後、義久は反豊臣的な態度を取り、一方の義弘は二度にわたる朝鮮出兵に従軍するなど親豊臣あるいは中立の立場にありました。
こうした兄弟の考え方の相違から家臣団がまとまらず、「関ヶ原の戦い」の際にも薩摩本国の軍勢を動かす決定権がなかった義弘は、けっきょく大坂に同行していたわずかな兵士のみでの参陣となりました。

しかも当初、島津氏は徳川家康から援軍要請を受け、東軍に参加する予定でしたが、伏見城に籠城する鳥居元忠が「主君である家康から聞いていない」と入城を拒否したため、流れで西軍として参戦することになりました。
こうした経緯で西軍に参加したものの、わずかな手勢であったことからか石田三成ら西軍首脳は義弘の存在を軽視し、開戦したのちも島津軍はほとんどなにもすることなく撤退戦――つまり今回のマンガで紹介された「島津の退き口」――がはじまることになります。

このマンガに登場する島津義弘を思い浮かべながら、兄弟間の方向性のちがいに悩まされたり、東軍として参加するはずだったのになぜか西軍として戦う羽目になったりするシーンをイメージしてみるのも楽しそうですね。

最後に大久保先生からコメントをいただいたので紹介します。

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