以前、二条城に取材で訪問した際に伺ったのですが、二条城の外堀石垣はほとんど江戸中期以降に修復工事されているので慶長期(家康の築城時)どころか寛永期(家光による改修時)のものすら残ってないそうです。
ただし一部、北面のクランク部分に慶長期と思われる石垣があるということだったので見てきました。
場所は北大手門から外堀に沿ってまっすぐ西に向かって歩いたところです。
このクランクはいわゆる二条城の凸型の縄張りの特長でもありますが、二の丸(下側の大きな長方形)と本丸(上側の小さな長方形)をつないでいる部分です。
上の写真では二の丸側から本丸を見ているので、いったん通り過ぎて逆から見てみたのが次の写真です。
たしかに「っぽい」石垣がありますね。
さっきまで見ていた二の丸の石垣とは明らかに石のきれいさが異なります。
(中央の算木積みに対して、左側がさっきまで見ていたラインです)
ただ反対側の、折れて本丸に伸びている石垣には不揃いの石もかなり混ざっています。
ここは少なくとも寛永の改修時以降に築かれているはずなのでおかしいのですが、もしかすると堀の形状を変える際にもともとここにあった石材を多少流用したのかもしれません。
(なぜ新しいのにしなかったのか、その理由はさっぱりわかりませんが)
伺った際もあくまでも可能性であって、断定はできないとおっしゃっていましたが、なんとなくロマンのある話なので、二条城へお越しの際は北側にもまわってみてください。
多くの観光客は東大手門が出入口になっているのでせいぜい東南隅櫓くらいしか見学してないと思いますが、外周をぐるっとまわればこの石垣だけでなく西門や西南隅櫓なども見れるのでオススメです。
(二条城の外周ですが、距離はだいたい1.8kmくらいです)
そういえば北大手門が築城時のものである可能性も50%くらいだと伺ってます。こちらももしほんとうだとするとすごいことですよね。
野面積みだからといって古い石垣とはかぎらない
よくある話ですが、野面積みの石垣を見つけると「お、これは信長や秀吉の時代の石垣か?」と考えがちですが、そうともかぎりません。
修復工事でもともとあった石をそのまま使うことは多いですし、技術の伝承スピードや職人の状況――たとえば天下普請で地元の腕利きの職人が不在だった――で、地域によって、あるいはタイミングによって、技術の劣る石垣を築かなければならないといことはあります。
(もっとも野面積みのほうが積むのがむずかしいので、一概に優劣を論じるのは危険なのですが、加工技術としての優劣で書きました)
以下の石垣は二条城の北東隅の部分です。
奥に見えるのが北大手門の橋で、ここも明らかに外側の石垣は野面積みです。
以前参加したあるガイドツアーでは「これは慶長期の石垣です。おじいちゃん子だった家光は改修の際、鬼門にあたるこの位置だけは家康の石垣を残したんです」と案内されました。
ぼくも「へーそうなのか」と自分がガイドする際は「らしいです」と断りを入れた上で紹介してきましたが、ここは江戸時代に修理の対象になっているので現存石垣ではありません。
(石材のいくつかが当時のまま残っている、とかはあるかもしれません)
そもそも野面積みはここだけじゃないんです。
あらためて北側から見てみると、よくわかります。
上の写真は外堀(東側=堀川通側)を北から南を向いて撮影したものです。
左側の石垣がずーーっと野面積みで積まれています。
少し拡大してみました。
これまでは東側から見ていたので、この面は死角になっていましたが、二条城にはこのように野面積みの石垣はほかにも残っています。
というよりも、二条城ってきれいな切込接ぎの石垣ってほとんどないですよね。おそらく東大手門と、あとは本丸東門(櫓門)および本丸西門、そして天守台くらいでしょうか。
江戸初期しか使われず、あとは幕末まで基本的には放置されていたお城ですから、江戸城や名古屋城などと比べるとさもありなんという感じですが、過去にこの北東部の石垣についてまちがった情報を紹介してしまったみなさんにお詫びいたします。
まだまだ勉強が足りないですね。がんばります。
築城時の石垣はあるにはあります
二条城から堀川通をわたって反対側、京都駅に向かうバス停のちょうど裏側あたりに築城時のものと見られる石垣があります。
バス停前の信号をわたり、そのまま橋をわたったところに降りる通路があります。