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戦国末期の駿府城の瓦について

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現在も発掘調査がつづいている駿府城ですが、2018年(平成30年)10月に金箔瓦が発見されました。駿府城は1585年(天正13年)に浜松城から居城を移すために徳川家康が築城し、小田原征伐後に家康が関東移封となったことにともない中村一氏が入城します。江戸時代にはふたたび家康が大御所の城として城主になっていますが、この金箔瓦がいつ・誰の時代のものなのかについて諸説ある状況です。
今回はツイッターでこの件について考察されている寺井半兵衛さんに寄稿いただきました。

駿府城から出土した瓦は従来、徳川家康の家臣である松平家忠が書いた『家忠日記』より、家康が五カ国領有期に居城としていた1586年(天正14年)〜1590年(天正18年)には石垣の堀と天守が存在したと考えられるが、瓦を葺いた記載が見られないため、1590年(天正18年)に入城した中村一氏が、家康が築いた駿府城に葺いたものだと考えられてきた。
しかし、2019年(令和元年)5月25日の静岡県地域史研究会において前田利久氏が、同年7月9日に『産経新聞』において千田嘉博氏が、駿府城金箔瓦が徳川家康五カ国領有期のものである可能性を示唆した。これを踏まえ、駿府城金箔瓦が徳川家康五カ国領有期のものである可能性と、駿府城から出土したいずれの瓦が家康期あるいは中村期のものであるのかを考察・分類したい。

駿府城金箔瓦のうち三葉文の軒平瓦は安土城や大坂城・久野城の、三つ巴文の軒丸瓦は安土城の系譜を引く。その他の瓦は、五葉文+三反転均整唐草文+飛び唐草の軒平瓦は浜松城・横須賀城と近似しており、同じ型紙から製作されたとさる。また、巴が極端に太い三つ巴文の軒丸瓦は横須賀城・石垣山城と同系であるとされ、豊臣系大名による織豊化・築城された城郭に使用されているものと同系の瓦が使用されている。このことから、戦国末期の駿府城の瓦生産には豊臣政権による技術提供、あるいは工人派遣、またはその両方があったと考えられる(図1・2)。

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三葉文の軒平瓦におけるモチーフの形骸化の類似例は、横須賀城の渡瀬繁詮期(天正18年〜)-有馬豊氏期(文禄4年〜)間において宝珠文の軒平瓦で存在する。そのため、モチーフが形骸化された三葉文軒平瓦は、同時期の中村一氏期のものと考えられる。

モチーフの形骸化前である三葉文の軒平金箔瓦は安土城の系譜を引き、大坂城・久野城と同系譜であり、その文様から近江系の工人によるものと考えられる。

安土城同伴(大溝城/水口岡山城からの転用)軒丸瓦=駿府城軒丸金箔瓦は従来考えられていた系譜だが、上記の軒平瓦が安土城の系譜を引いており、さらには大溝城・水口岡山城から転用したとしても、天守の瓦を全てカバーできた可能性は低い。ある程度は金箔を貼り転用していたとしても、その多くが軒平金箔瓦と同時期に制作された安土城と同系の軒丸瓦と考えることができる。

軒丸金箔瓦は凹部に金箔が貼られている(信⻑型)だが、全面に貼られている例も存在する。軒平金箔瓦は凸部に貼られている(秀吉型)ものである。
これらのことから、豊臣金箔瓦の確立期に製作されたもの、あるいは全面に金箔が貼られた瓦から、天正期は各地で金箔瓦が生産されたために工人不足が発生し、それをを他から補ったことで、技術を持つ一部工人から技術を持たない他工人集団への金箔瓦製作の技術伝播がされた可能性を考えることができる。
しかし他の豊臣系城郭では、信⻑型・秀吉型が同時期に製作・使用されている例は見られない。加藤理文氏は、軒丸瓦・軒平瓦の金箔の貼り方の違いは職人集団の違いである(2018「駿府城出土の金箔瓦」お城EXPO)としている。しかし仮に家康五カ国領有期のものとすると、当時はまだ金箔瓦の使用は豊臣一門のみであるため、その意匠に秀吉等豊臣氏が関与していることは十分に考えられる。そのため、金箔の貼り方を職人が独断で決めていたとは考えにくい。軒丸瓦は信⻑型・軒平瓦は秀吉型と明確に金箔の貼り方を区別して生産されていることから、金箔の貼り方の違いは、何かしらの意図が存在した可能性がある。

大坂城―石垣山城の系譜を引く巴が極端に太い三つ巴文の軒丸瓦は中村一氏が駿府城に入城したのと同じ1590年(天正18年)以降の渡瀬繁詮期横須賀城において同系譜のものが見られ、大坂城―聚楽第の系譜を引く五葉文+三反転均整唐草文+飛び唐草の軒平瓦は同じく1590年(天正18年)以降の堀尾吉晴期浜松城・渡瀬繁詮期横須賀城において同系譜のものが見られる。

駿府城軒平金箔瓦の文様と同系譜である久野城軒平瓦は、版木の数量が少なかったためか文様がかすれており、駿府城軒平金箔瓦と比べ文様が稚拙である。そのため、おそらく駿府城とは異なる工人が携わっている。また、久野城軒平瓦と駿府城軒平金箔瓦間の文様はパツ・モチーフは同一だが、異なる点が多い。しかし駿府城・横須賀城・浜松城で出土した五葉文+三反転均整唐草文+飛び唐草の軒平瓦の文様は共通点が多いことから、この3城の軒平瓦の文様は同時期に同じ型紙を使用して版木を製作・瓦を生産していると考えられる。しかし、駿府城軒平金箔瓦と久野城軒平瓦は異なる工人集団・時期に製作された可能性がある。
『久野御家覚書』(元禄十=1697年丑年十一月に書かれた)には「久野之城宗安様(久野宗能)の御代ニハ天主御座候処、松下右兵門(之綱)在城の時分、天主おろし申し候」とあり、1590年(天正18年)以降に、城の整備がされたことが書かれており、発掘調査により松下期には城内に礎石建物が建てられ、瓦が出土していることから瓦葺きの建物が存在したことがわかっている。その後、久野城は廃城となる1644年(正保元年)まで改修され続ける。廃城直前に城主となった北条氏重の時期にはコビキBの瓦が登場するが、それ以前は駿府城金箔瓦や周辺城郭と同様にコビキAの技法の瓦が製作・使用されている。そのため、1590年(天正18年)から北条氏重が入城する1619年(元和5年)前後の間に、久野城三葉文軒平瓦は製作されたことになる。駿府城は1607年(慶⻑12年)より大御所となった家康による改修が始まるが、金箔瓦はそれ以前の天正期のものである。これらより、駿府城と久野城の瓦製産時期が異なっていたのであれば、駿府城金箔瓦製作時期は久野城改修時期より古くなるだろう。そのため、駿府城・横須賀城・浜松城の五葉文軒平瓦・久野城三葉文軒平瓦は同時期に製作され、駿府城軒平金箔瓦はそれ以前に製作された可能性がある。そして、五葉文・三葉文軒平瓦は1590年(天正18年)以降に製作されたとされるため、駿府城金箔瓦はそれ以前に製作されたものであると考えられる。

『家忠日記』天正16,5,12条に天守、天正17,2,11条に小天守とあり、家康が天守を建てた記録が残っているが、中村一氏が天守を建てた記録は存在しない。もし中村一氏が家康の天守を瓦葺きに変更したとしても、もともと瓦葺きでなかった建物の柱が、瓦葺きとなった屋根の総重量を支えることはできないはずである。

また、軒丸・軒平金箔瓦文様は天正期天守台付近から出土しているが、それ以外の文様瓦は二の丸南東側に位置する米倉跡(現東御門芝生広場公衆トイレ・歩兵第34連隊址碑付近)や本丸堀跡から出土している。
大御所駿府城本丸・二の丸堀と城下の町割り・三の丸堀の角度のズレと、大御所天守台と天正期天守台の位置が対応していることより、大御所駿府城の本丸・二の丸は天正期駿府城の縄張りを踏襲していると考えられる(図3)。

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他の城を見ても、天守建物は優先的に瓦が使用されている。先述のように家康が天守を建てたのならば、それを瓦葺きにするだろう。しかし、それ以外の建物は杮葺や檜皮葺・石置き屋根でも十分なはずである。
大手にも瓦が使用されるが、家康五カ国領有期の駿府城大手は南側とされる。東側が率先して瓦葺き化されるとは考えにくい。当時はまだ城郭瓦は最新技術かつ貴重であり、三河・遠江の天正期城郭織豊化においても、天守や主郭・目立つ建物のみの使用であった。さらには聚楽第築城時には周辺の廃城となった城や寺院から瓦を運び込み、金箔を貼りリサイクルしたように、瓦工人の数も決して多くなかったことがわかる。
そのような貴重なものを城の端の建物に使う余力があり、かつ金箔瓦とそれ以外の文様の瓦の出土地の違いより、金箔瓦と城南東部の瓦の製作時期には差があると考えられる。

池田輝政の吉田城や山内一豊の掛川城・堀尾吉晴の浜松城等、三河・遠江で中村一氏と同じ豊臣秀次配下の大名(関白様御家中衆)による同時期に織豊化された城郭においては、石垣の使用は城外から見える主要部のみと部分的なものである(吉田城は未完成)。
また、これらの諸将は名護屋在陣・朝鮮出兵は免除されたが、大坂城普請などを担わされている。『駒井日記』文禄3年正月20日・正月23日条には大坂城普請において、中村一氏は三千人を動員することを命じられた記述がある。三の丸で新たに発掘された武家地・道跡や天守台の石垣の規模を見るに、中村一氏が大規模に造成した余力・可能性はおそらく低いであろう。

これらから、大坂城―聚楽第・石垣山城の系譜を引く瓦は中村一氏が導入したものであり、金箔瓦は徳川家康が五カ国領有期に作ったものと考えられる。

徳川家康が葺いた瓦に、中村一氏が入城後に金箔を貼ったと考えることもできる。しかし、当時の中村一氏は豊臣秀次配下である。豊臣秀次が入った清洲城には金箔瓦が葺かれていた。しかし、その配下である中村一氏が金箔瓦を葺くとは考えにくい。当時一氏は駿河14万石を治めていたが、同じく秀次配下で三河・遠江・駿河の大名の中で最も石高が多かった三河吉田城の池田輝政は15万2千石を治めていた。また、清洲城からは桐紋の軒平瓦・軒丸瓦・⻤瓦が出土しており、同様に吉田城は他の三河・遠江・駿河の城と異なり、桐紋の軒平瓦・⻤瓦が出土しており、秀次に次ぐ存在であった可能性がある。しかし、一氏よりも石高が多い池田輝政の吉田城から金箔瓦は出土していない。そのため、家康が五カ国領有期に金箔を貼ったと考える方が自然である。

1590年(天正18年)の小田原征伐以前は、金箔瓦の使用は豊臣一門(例外として織田家の城)のみであったが、それ以降は他の城における使用が認められる。しかし、もし駿府城金箔瓦が家康のものとすると、この法則に当てはまらない。1586年(天正14年)に秀吉の妹である旭姫が嫁いだことで秀吉の義弟になり、1587年(天正15年)8月8日に秀吉の実弟である豊臣秀⻑と共に従二位権大納言に叙されていることから、豊臣一門に準ずる待遇を得たのかもしれない。
また同年に関東・奥両国惣無事令により、家康は関東・奥羽の監視が託されたこと。従三位相当の常設武官最高位である左近衛大将と左馬寮御監(⻑官)に任じられたこと。秀吉と北条氏との仲介役であったことも、金箔瓦使用の理由になる可能性がある。

【参考文献】
加藤理文:2012『織豊権力と城郭 -瓦と石垣の考古学-』 高志書院
加藤理文:1993a「東海地方における織豊城郭の屋根瓦」『久野城』IV 袋井市教育委員会
加藤理文:1999a「横須賀城跡出土瓦から見た豊臣政権の城郭瓦」『史跡横須賀城跡史跡等活 用特別事業報告書』大須賀町教育委員会
加藤理文:2018「駿府城出土の金箔瓦」お城 EXPO
1995『久野城ものがたり』久野城址保存会

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