戦国時代を生きたいわゆる「軍師」の中でも、山本勘助は特に名前が知られているうちのひとりといっていいだろう。
しかし、その名声とは裏腹に、彼の実相はあやふやな部分が多い。
(松本楓湖作、恵林寺蔵)
以下、彼の主君である武田信玄の軍学を記した『甲陽軍鑑』の内容を主に紹介する。
勘助は今川家臣の山本図書の子として生まれ、やがて他家に養子へ出される。
ところが何が理由か養家を出て各地を遍歴し、長い苦労の果てに武田信玄に仕えるようになった。
彼は独眼で片足も不自由という異様な姿であったと伝わり、また幅広い知見や優れた築城術を備えてたといわれているが、それらはともに放浪時代に得たものであったのかもしれない。
そんな勘助の活躍として最もよく知られているのが、第四次川中島の戦いのときのものだ。
武田信玄と上杉謙信は信濃の領有をめぐってしばしば争っており、その舞台となったのが川中島である。
多くは小競り合いやにらみ合い、調略合戦の様相を呈したのだが、この時ばかりは違った。
戦国史上に残る熾烈な戦いになったのである。
第四次川中島の戦いにおいて、謙信は平原を見下ろす妻女山に陣取った。
武田側としてはどうにか彼を山から追い落とさねばならず、そのために勘助が考えだした策こそ世に名高い「啄木鳥戦法」——軍勢を信玄率いる本隊と自らが参加する別働隊に分ける作戦だった。
別働隊が上杉軍を攻撃して山から追い出し、そこを本隊が待ち構える挟撃戦法である。
一方、相手の謙信も希代の英雄であった。
作戦を事前に察知したのか、武田別働隊が攻め寄せてくるより先に自ら山を降り、信玄ら本隊を強襲する。
これにより信玄は窮地に陥るが、慌てて駆けつけた別働隊が加勢したことによりからくも窮地を脱したのであった。
ただし、自らの失策を埋めるために奮闘し、ついに倒れた勘助の命を代償にして。
(月岡芳年『川中島三討死 山本道鬼討死之図』)
——これがいわゆる「山本勘助」伝説であるが、信憑性の高い資料に乏しい(メイン資料である『甲陽軍鑑』は創作の色が強い)ため、勘助はそもそも実在したのかどうかが怪しい人物とみなされてきた。
しかし、近年になって発見された資料により、少なくとも武田家臣に「山本勘助」がいた事自体はどうやら間違いないようだ。
それでも、その人物が私達のイメージするような軍師・勘助であったかどうかはまだまだハッキリしていない。
山本勘助は未だに謎が多く、それゆえにこそ魅力的なキャラクターなのである。