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【戦国を彩る名軍師たち】本多正信と徳川家康の「水魚」関係

戦国大名の命運を左右する「戦」は必ずしも戦場にばかりあったわけではない。
謀略によって敵を弱めて味方を強くし、また内政に励んで国内を豊かにするのも、合戦と同じくらい――あるいはそれ以上に重要なことであった。そのような謀略・内政に従事するタイプの軍師の中から、今回は徳川家康の側近としてその智謀を大いに振るった本多正信を紹介したい。

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(加賀本多博物館所蔵)

正信の本多一族は古くから松平氏(徳川氏)に仕えており、同族に徳川四天王のひとりである本多忠勝がいる。
彼と同じく、正信も若い頃から家康に仕えていたのだが――その徳川家臣としての経歴は突如として途絶える。三河一向一揆の武力反乱が起きた際、多くの徳川家臣が主君への忠誠と信仰心の間で揺れた末に後者を取って反乱に参加したのだが、正信もそのひとりだったのだ。一揆が鎮圧された後、正信はすぐには帰参せず、各地を放浪している。
一向一揆の重要拠点である加賀にいたというから、よほど信仰心が強かったのだろうか。

その後、時期は不明だが家康のもとに戻った正信は(1570年(元亀元年)の姉川の戦いに参戦していたとも)、やがて家康第一の側近として頭角を現した。その活躍としては、家康が豊臣政権によって与えられた新領地・関東の経営を始めとして、行政官的なものが多かった。
それに加え、家康が豊臣政権を打ち倒して江戸幕府を作り上げる過程での各種の謀略にも関わったとされる。

正信に対する家康の信頼は抜群で、両者の関係はしばしば「水魚」に例えられ、また何度も話し合わずとも、少しの言葉のやり取りで理解し合うことが出来たとされる。
正信のほうもこれに応えて大いに活躍し、黎明期江戸幕府における大老・老中的な役割を果たした。
その功績は大きかったが、謀略・内政に携わるものの常として武将たちからの評判は悪く、周囲の嫉妬を避けるためか長く加増を望まず、晩年にようやく2万2千石を受け取ったという。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2013年8月26日)
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