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【戦国を彩る名軍師たち】毛利を背負って立った安国寺恵瓊

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策を立てたり特殊技術を提供したりと多々ある軍師の役目の中で最も大事なものは何か。悩むところだが、私は「調略(寝返り工作)」を始めとする外交・交渉こそがそれと考える。
そして、そのような交渉に活躍したのが大名にまでなった僧侶・安国寺恵瓊である。

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(「教導立志基三十三:羽柴秀吉」月岡芳年)

この時代、大名たちは絶対君主というよりは寄り合い所帯のリーダーという性格が強く、支配下の国人たちを繋ぎ止めるのに必死だった。
逆に言えば、そうした国人たちを口説いて寝返らせることができれば、戦わずして勝つことさえ難しくなかったのである。
その役目の重要性はわかってもらえることだろう。

そして、このような交渉事において、僧侶は非常に有用な存在であった。
俗世から離れているために国境を気にせず行動ができ、捕らえられて殺されるようなことがなかったからだ。
こうした役割に働く僧侶を使僧といい、恵瓊は毛利氏の使僧であった。

恵瓊はもともと安芸武田氏という名門武家の生まれだ。
しかし家は毛利氏に攻め滅ぼされ、僧侶となって生き延びたところ、師匠の縁から毛利氏の使僧として活躍するようになった。
特に重要だったのは当時中国地方にまで手を伸ばしつつあった織田氏との交渉で、中国方面司令官であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との間にはある種の信頼関係も成立していたようだ。

やがて織田信長が本能寺の変で死ぬと、秀吉が旧織田政権を吸収して躍進、新たな天下人となる。この豊臣政権において、毛利氏は大きな位置を占めることになった。
というのも、信長死後に秀吉が慌てて中央へ取って返した際、毛利氏は和睦の約束を守ってその背中を攻撃するようなことはなく、その後も秀吉との協力関係を維持し続けたからだ。
この関係には外交責任者である恵瓊の役割が大きく、彼もまた大名に列せられるほどであった。

しかし秀吉死後の関ヶ原の戦いにおいて、恵瓊は十分な活躍を見せることが出来なかった。
石田三成と共謀して毛利氏を西軍に導いたにもかかわらず、家中の意見を統一するのに失敗したため、毛利軍は関ヶ原の戦いでほとんど戦うことがなかった。
このせいで西軍は敗れ、恵瓊も捕らえられて処刑されてしまったのである。
このことは合戦における外交担当者=軍師の重要さを示している、といって過言ではない。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2014年3月11日)
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