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【戦国を彩る名軍師たち】信長に軍師がいた!? 沢彦宗恩

戦国の魔王・織田信長は軍師を持たない大名であった、という。
しかし、本当にそうだろうか。
信長は己ひとりの頭脳から湧き出たアイディアだけで、天下布武まであと一歩の距離にまで辿り着いたのだろうか。
さすがにそれは無理がある――その視点で彼の周囲を見た時、信長の軍師候補として近年注目されるようになった一人の人物がいる。
その名は沢彦(澤彦)宗恩(たくげん そうおん)。
臨済宗妙心寺派の僧侶である。

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若き日の沢彦は各地を放浪していたという。
やがて京都の妙心寺で修行をした彼は、のちに美濃へ赴き、瑞龍寺という寺に落ち着くことになった。ここで沢彦の庇護者となったのが、隣国尾張の織田信秀に仕える平手政秀という武将である。
信長の生涯について知識のある人ならこの人物が何者か知っているだろう――そう、信秀から彼の嫡男である信長の傅役(もりやく)を任せられた男だ。

この縁から、沢彦は「三郎」と呼ばれていた若き日の信長のためにその諱(いみな)を選ぶ役目を任せられた。また政秀が死んだ際(信長の奇行に頭を悩ませた末、諌めるために自決したと伝えられるが、近年の研究では疑問視されている)には後事を託された、とも言われている。

信長と沢彦の関わりはこれだけではない。
信長は長年の宿敵である美濃の斎藤氏を滅ぼし、その居城であった稲葉山城を奪い取った際、新たな地名をつけることにした。
この時、沢彦が信長の命を受けて新しい地名案を考えることになり、「岐阜」「岐山」「岐陽」という三つの案を提出した。
その中から信長に選ばれた「岐阜」の名が、現在に至るまでこの地域の名前として残っている、というわけだ。
また、信長は同時期から「天下布武」の印判を使い始めている。
これは「天下を武力によって制する」というスローガン的なものであったと考えられているのだが、その言葉を信長に提案したのも沢彦であったという。

これ以外、沢彦が何か信長に政治的なアドバイスをした、という記録があるわけではない。ただ、名付け親という沢彦と信長の関係性を考えると、彼が幼き日の信長に教育を施していても不思議ではない(禅僧が武将の教育係を務めるのは普通のことだった)。
そして、そのような形で縁のある僧侶が、大名や武将に知識面での助言をするのもまた、当時からすると珍しいことではなかったのである。
つまり、沢彦こそが信長の軍師であった――そう考えても、決して無理は無いのではと思うのだが、いかがだろうか。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2014年4月19日)
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