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【戦国合戦こぼれ話】土木工事で勝つ(1)長篠の戦い

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戦国時代の合戦は、必ずしも戦闘能力の優劣だけでは決まらなかった。
ときに、それ以外の技術や能力によって勝敗が決まることもある。
視点の広さ、能力の引き出しの多さが思わぬ有利を導くのは、今も昔も変わらない。

武田信玄の急死後に家督を継承した武田勝頼は、積極的な対外進出を繰り返していた。
彼は1575年(天正3年)に三河の長篠城を攻め立てる。
この地は信濃と三河を結ぶ要所にあり、かつて信玄が奪取するも、徳川家康によって奪回されていたのである。

これを放置できない家康と、その同盟者である織田信長は長篠城救援のため急行した。
この際、長篠城からは鳥居右強衛門という武士が単身城を脱出して援軍と合流している。
すぐさま城へ舞い戻った彼は、寄せ手に捕らえられたものの、自らの命を懸けて城内に援軍が来ていることを伝え、士気を上げることに成功している。
このように、篭城戦においては城内と場外の情報伝達が非常に大きな意味をもった。

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『鳥居強右衛門敵捕味方城中忠言』(楊洲周延)

やがて到着した織田・徳川連合軍は、城の西に広がる設楽ヶ原に陣を築き、ここで両軍が激突することになった。
通説では信長が3000丁の鉄砲を持ち込み、それを柵の向こうから「3段撃ち」――鉄砲隊を3つに分けて3列に並べ、1隊が撃っている間に残りの2隊が射撃準備をすることで、連続発射を可能にする――これにより武田軍は壊滅的悲劇を受けた、とされてきた。

しかし、近年ではこれらの説はほぼ否定されている。
実際に信長が持ち込んだ鉄砲は1000丁あまり(それでもこの時代では相当な量であったが)だったらしい。
また、防御のために用意したのはただの柵ではなく、野戦築城とでもいうべき頑強な防御施設だった、とされる。
柵を立て、空堀を掘り、土塁を盛り、かつ山の斜面を利用して築いたこの防御線の前に、武田軍は手も足も出なかった、というわけだ。
すなわち、織田・徳川連合軍の長篠の戦いによる勝因は「土木工事」だったのである。

この戦いで多くの将兵を失い、壊滅的悲劇を受けた武田氏は、その後も抵抗を続けたがやがて衰退していき、ついに1582年(天正10)に滅亡してしまうのだった。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2011年6月23日)
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