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【戦国合戦こぼれ話】国人たちが左右した第一次月山富田城の戦い

戦国時代の合戦は、しばしば実際の戦闘の結果以上に、支配下の国人たちの支持の具合に左右される部分があった。
国人たちは戦国大名の家臣であると同時に独自の地盤を持つ独立勢力でもあったから、情勢の変化によってはいくらでも主君を裏切った。
それが最も如実に現れたのが、1542年(天文11年)の第一次月山富田城の戦いである。

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出雲の月山富田城は尼子氏の居城である。
尼子氏は中国二強と謳われたほどの有力大名であったが、この前年には安芸の毛利氏を大軍で攻撃するも落とせず、また勢力拡大に大きな功績を残した尼子経久が亡くなっていて、時の当主・尼子晴久は大いに追い詰められていた。

一方、これを好機と捉えたのが中国二強の片割れ、長門の大内義隆であった。
毛利氏をはじめとする支配下の諸勢力を総動員して出雲へ攻め込み、月山富田城を取り囲んだ。
これを見て「もはや尼子は終わり」と判断したのか、出雲の国人たちは雪崩をうって大内側に付き、月山富田城は孤立することになった。

――しかし、これだけ有利な形を作ったにもかかわらず、大内側は攻め切れなかった。
月山富田城を落とすことができずに時間ばかりが過ぎ、国人たちは「これはもしかして、大内側が負けるのでは」と思い始めた。
あまりにも優勢でありすぎたのが、逆に不安を煽ったのかもしれない。
勝ち馬に乗っただけの寄り合い所帯は、勢力が膨れ上がっていればこそ、むしろもろい集団になりやすい。
これは現実の政治・経済でいくらでも見られる現象だが、このときもそうだった。

ついに、元々尼子側であった国人たちが裏切る事件が起き、大内側としてはもう戦いを続けることができなくなった。
しかたなく撤退に移るも、これは尼子側からすれば大チャンスだ。
熾烈な追撃が行われ、大内側も多大な損害を受けた。
義隆は跡継ぎである晴持をこの過酷な脱出の過程で失い、またこの遠征そのものが大失敗に終わったことによって政治に失望し、以後は京風の文化に傾倒していくことになる。

このことが遠因となって大内氏は衰退し、また尼子氏もそれに乗じて一気に中国地方を統一するようなことはできず、毛利氏の時代がやってくることになる。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2011年7月15日)
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