弱者は強者の思惑に翻弄されるのが戦国の世の習いというもの。
それでも状況を利して力をつけていこうという弱者もいるが、強者の都合によってもてあそばれた挙句、滅んでいく弱者の方が多いのもまた事実であろう。
かつて中国二強の一角に数えられた出雲の尼子氏の滅び方はその典型といえる。
躍進した毛利氏によって攻め滅ぼされた尼子氏であったが、僧になっていた尼子勝久を旗印として旧臣(「我に七難八苦を与えよ!」の山中鹿之助が特に有名)が結集、一時は出雲のかなりの部分を取り戻したほどである。
この時の挙兵は毛利氏の圧迫によって失敗に終わったのだが、織田信長の援助を受けてたびたび復興運動を繰り広げた。
そして1577年(天正5年)には播磨の上月城に入り、一応の復興を迎えたのである。
これは織田政権の中国方面司令官である羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が毛利から奪い取ったものであり、信長・秀吉としては尼子氏を対毛利の盾として使うとともに、かつて中国地方に強い影響力を持っていた尼子の名前を使うことによって毛利方勢力の切り崩しを狙うつもりだったのだろう。
ところが、このことはむしろ毛利を必要以上に刺激する結果に終わってしまったようだ。
毛利の大軍が上月城を包囲し、救援のためにやってきた羽柴軍と対峙することになった。
悪いことに、この時期は播磨の有力者である別所氏が織田に対して謀反を起こし、播磨の戦況が悪化していた時期だったのである。
ついに尼子氏を見捨てる決断をした信長は秀吉を撤退させ、追い詰められた勝久は切腹して果てた。
かくして尼子氏はここに再びの滅亡を迎えることになったのである。
これは弱小勢力の悲哀が強く伝わってくるエピソードといえる。
いつの時代も立場の弱いものが生きていくためには強いものの力を借りるか自らが強くなるしかなく、前者の道を選ぶなら状況の変化に押しつぶされる可能性が常に付きまとうのだ。