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【戦国合戦こぼれ話】家康が苦戦したわけは第二次上田合戦にあり!?

前回に引き続き、「関ヶ原の戦い」を掘り下げていく形で話をさせていただく。
今回取り上げるのは、徳川家康が石田三成の挙兵を知って上杉征伐を取りやめてから関ヶ原で決戦する間におきた「第二次上田合戦」の物語である。

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家康は軍を3つに分けたとされる。
ひとつは福島正則らもともと豊臣家に使えていた武将たちの先発隊。
ひとつは家康自身の率いる東海道を近畿へ進んだ部隊。
そして最後のひとつが家康の三男で後継者と目されていた徳川秀忠の率いる部隊で、中山道を進んでやはり近畿へ向かうことになっていた。
この秀忠隊は徳川家の譜代家臣が多く参加しており、「徳川本隊」とも言うべき軍勢であった。

――にもかかわらず、秀忠隊は関ヶ原での決戦に参加していない。
間に合わなかったのだ。
その主原因は、西軍側について信濃の上田城にこもっていた真田昌幸・幸村の親子に苦戦し、時間の空費をしたことにあるとされる。
これに先立つ1585年(天正13年)の「第一次上田合戦」と区別するため、この戦いは「第二次上田合戦「と呼ばれる。

昌幸・幸村親子は徳川軍を挑発して戦闘状態に引きずり込むと、あるときは場内におびき寄せてこれを痛めつけ、またあるときは自ら打って出て敵を混乱させた。
秀忠の率いる3万8000という軍勢はついに上田城にこもる真田の小勢を屈服させることができず、むしろ城攻めを諦めるまでに1週間という時間を浪費させられ、結果として関ヶ原決戦に間に合わなくなってしまったのである。

「第二次上田合戦」は「関ヶ原の戦い」本戦に比べれば小規模なものに過ぎないが、もしこの戦いがなければ秀忠の率いる徳川本隊が家康と合流していたであろうと考えれば大きな意味があったといえる。

家康が関ヶ原で勝てたのは内通工作のおかげというのは以前紹介したとおりだが、そもそも秀忠が間に合っていればそんな小細工も必要なかったかもしれない。
全体から見ると小さなフィールドでも、時にはより大きな事態を動かすキーになるかもしれない、というのは私たちが忘れてはいけないポイントであろう。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2011年11月5日)

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