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【戦国合戦こぼれ話】羽柴秀吉の中国大返し

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1580年(天正10年)6月2日、天下統一を目指していた織田信長とその長男信忠が、突然重臣の明智光秀に襲撃され自決した。
誰もが知る「本能寺の変」である。
この緊急事態に対して、真っ先に動いたのは羽柴秀吉――のちに全国統一を果たす豊臣秀吉だ。

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秀吉は事件当時、中国方面を制圧すべく毛利方の備中高松城を攻めていた。
講和の交渉も始めていた3日夕方ごろ、信長自害の情報が秀吉の耳に入る。
秀吉はこのことを毛利方に知られないようにし、講和締結を急いだ。
毛利方としても、秀吉に増援がくることを知っていたからこれ以上戦うのは難しい状況だと判断し、講和に応じた。

6日午後過ぎ、毛利方が撤退していくのを確認した秀吉軍も高松城を出発した。
ここから京都と摂津の境にある山崎まで、怒涛の行進劇が始まる。
6日は20数キロを移動、翌日7日は朝から出発し、約55キロ先の姫路へ。
姫路城は秀吉の居城であったので多くの食料や軍資金が置かれており、秀吉はそれらを兵たちに与えた。
これでやる気を出させたのである。
8日は1日休みとし、9日早朝出発。
姫路から摂津の尼崎までの80キロほどを2日で走り切った。
この時秀吉についていた兵の数は約2万。大規模な行進だといえよう。

その間に秀吉は自分の味方になってくれる者たちを探していた。
光秀軍は1万3000とされており、自軍の2万だけでは少し不安だったようだ。
結果、丹羽長秀や池田恒興らが秀吉方についている。
12日夜、山崎から約10キロ離れた冨田に到着。
そして翌日の13日、山崎の地で光秀軍とぶつかったのである。

出発からわずか1週間。
秀吉の迅速すぎるといってもいい行動のおかげもあって光秀に完勝した。
この勝利により、秀吉は全国統一への切符を手に入れたといってもいいだろう。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2011年12月19日)

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