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たかまる。さんの丸岡城シンポジウム「ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎」参加レポート

丸岡城が国宝化を目指す上で実施した調査結果によって、天守が柴田勝豊の築城時のものではなく、江戸時代に建てられたものであることが判明したわけですが、じっさいに調査にたずさわった先生方の話を伺えるシンポジウムが開催されました。
今年の団員総会の会場にもなったように、丸岡城は攻城団とも縁の深いお城で、ぼくも参加したかったのですが、あいにくスケジュールの都合がつかなかったので、どんな内容だったのか気になっていました。
ちょうど城郭ナビゲーターのたかまる。さんがご自身のブログにレポートを掲載されていたので、転載をお願いして快諾いただきました。とてもわかりやすいのでお読みください。

2019年11月16日(土)に丸岡城シンポジウムが福井県坂井市で行われました。
四年間にわたる天守の調査・研究の成果を発表するシンポジウムです。
感想を含めてレポートします。

丸岡城シンポジウム参加レポート

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「丸岡城シンポジウム」が福井県坂井市で2019年11月16日(土)に開催されました。

天守の創建年代の研究などが積極的に行われたとあって、たくさんの方が参加されていました。
筆者も丸岡城天守の動向については気になっていたところなので、足をのばして傍聴してきました。

そこで報告されたことは、

  • 丸岡城天守の創建年代がおおよそ明らかになったこと
  • 新たにわかったことによって、謎が増えたこと
  • 丸岡城天守が最古とは言えなくなったが、価値がなくなったのではなくて逆に価値が高まったこと

ということにまとめられると思います。

また、改めて丸岡城の特徴や魅力などについて、パネリストの先生方から力強いコメントが出ました。

以下に解説していきます。

お天守の新しい知見と謎

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お天守は寛永期(1624~1645年)に建てられた

まずは福井工業大学教授の吉田純一先生から、「お天守の新しい知見と謎」というタイトルで基調講演がされました。

丸岡の方々は天守のことを「お天守」と呼んでいます。

時間の都合上、テーマを絞って報告がされましたが、天守がいつ建てられたのかという話が中心でした。

結論から言うと、寛永3年(1626)以降のある時期に建てられたということが調査・研究の結果として明らかになりました。

丸岡城は最古の天守ではないかと言われてきましたが、この研究結果によって1620年代に建てられたということが判明したため、最古ではなかったというのが結論です。

ただ逆に、いつ建てられたのかが今まで分からなかったことを考えると、寛永期に建てられたというところまで絞り込めたのはとても大きな成果だったと思います。

具体的には以下の三つの方法を全て実施され、特定されました。

  1. 年輪年代測定法
  2. 放射性炭素( C 14)年代測定法
  3. 酸素同位体比年輪調査法

丸岡城は昭和15年から17年にかけて天守の詳細な調査が行われており、その際に記録された写真などの資料が豊富にあるため、それらも含めて天守の創建年代の特定にチャレンジされたわけです。

その結果、年輪年代測定法では1620年代頃、放射性炭素年代測定法では1623年頃、酸素同位体比年輪調査法では1626年頃に伐採された木を使用しているということが明らかになりました。

これらのことから、現在の天守は寛永期に建てられたと考えられるというのが今回の最大の成果です。

寛永期の天守の姿

では寛永期に建てられたお天守の様式はどのようなものだったかと言うと、その他の調査結果なども含めて考えられたのが、以下のようだったそうです。

  • 外観二重、内部三階建ての望楼型天守
  • 三階の廻縁(まわりえん)は後々つけられ、元は腰屋根(こしやね)であった
  • 屋根は現在のような石瓦ではなく杮葺き(こけらぶき)である
  • 破風(はふ)は漆塗り、鯱(しゃち)は金箔塗りであった
  • 古典風の優美な天守であった

ということです。

この結果をもとに寛永期の天守は、下の画のような姿であったという CG が作成されています。

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寛永期天守の復元CG

丸岡城天守の券売所にも掲示されています。これを見ると、現在よりも古風で優美な外観だったのですね。

吉田先生からの報告では、この内容が最大の成果だということでした。

その他の研究成果

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骨組が特徴的-木林先生の報告

木林先生は構造上、特に骨組み形式から丸岡城天守の特徴などを研究されました。
まとめると以下の4点です。

  • 柱通りがずれている
  • 屋根が石瓦に変更されている
  • 中央桁通りの架橋が特徴的
  • 掘立て柱がある

他の天守の骨組み構造と比較しても、丸岡城天守の骨組み構造は特徴的だということです。

屋根が石瓦葺きでのため屋根の重さは60トンほどあり、通常の瓦葺きや杮葺きの屋根の倍以上の重量があることになります。

それを支えるための骨組み構造にする必要があったため、現在の通説とも照らし合わせて考えても丸岡城天守独自の構造をしているとのことでした。

これも丸岡城天守の一つの特徴だと考えられます。

石垣は天正期に存在していた可能性あり-中井先生の報告

滋賀県立大の中井先生は、石垣から見た丸岡城天守の構造年代について研究されました。

現在の天守台の石垣は昭和23年の福井地震後に積みなおされたものなので、創建当時のものではないところが残念ではありますが、過去の記録や写真などをもとに調査をしたところ、矢穴技法が一切なく野面積みであるということから、慶長5年以前の石垣ではないかという可能性を指摘されていました。

北陸においては天正3年頃、越前府中城や小丸城などで天守台石垣が作られたと言われており、丸岡城の天守台石垣もその頃かそれ以後に作られた可能性も否定できません。

また天守台に70~76cm 程度の床下のような穴蔵(あなぐら)のようなものがあったということや、南側に出っ張りの石垣が見つかったという報告もされていました。

しかしこれらがどのようなものだったのかについては謎が多く、今回の研究では明らかにはならなかったそうです。

丸岡城天守は現在は独立式天守と言われていますが、実際には南側に付櫓(つけやぐら)があった可能性もあるとのことです。

歴史的に丸岡の存在意義は大きい-松浦先生の報告

最後に松浦先生が文献をもとに調査された結果が報告されました。

丸岡城の歴史的な背景を解明することが一部できたように感じましたが、なぜ丸岡の土地を選んだのかや誰が丸岡城に入ったのかなどが明らかにされたと思います。

具体的には、天正9年4月までに柴田勝豊が豊原城から丸岡城へ移っていたことが明らかとなりました。

パネルディスカッション

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最後にパネルディスカッションです。

丸岡城の役割について

背景としては、次の2点があります。

  • 越前国内で起こった一向一揆対策で豊原城に柴田勝豊が入城したこと
  • その後に加賀一向一揆に対抗するため北ノ庄城の支城として丸岡城が築城されたこと

豊原城から丸岡城に移ったことについて中井先生から、外の者が来た時にはいったん従来の城に入ってその後に新しい城を築いてそちらに移る、という織田の城づくりの特徴について挙げられ、丸岡城についても豊原城にまず柴田勝豊が入城したあとに丸岡城に移っているということがこれに一致するということを発表されていました。

その理由としては、豊原城には縄張りができないこと、そして城下町が作れないことが挙げられます。

天正記には城、町、街道を一体に考えた城作りというのが主流になり、それらを考えて丸岡城に築城されたという考えです。

立地について

なぜ丸岡なのか? という点ですが、次のようにまとめられます。

  • 領国支配の拠点として城の役割が変わってきており、山城から平山城、平城に移行していたこと
  • 田島川の船運に優れていて、小高い独立丘陵にあった丸岡が選ばれた
  • 周りが深田、低湿地であったこと(城づくりに適した土地が丸岡の小高い山だった)
  • 丸岡城の上からだと北側がよく見えて、敵の動きが一目瞭然であったこと
  • 西側も同様によく見え、海側の動きを見るためには適していること
  • 本城である北ノ庄城を守るために川を挟んだ場所にあること

これらが丸岡が選ばれた理由ではないかとのディスカッションでした。

天正期に天守はあったか?

天正4年時点に天守があったかどうか?

寛永期の天守はどうだったかについて改めてディスカッションがありましたが、上で述べた通りなのでここでは割愛します。

丸岡城の魅力

各先生から丸岡城の新たな魅力などについてコメントがありました。

吉田先生からは、今回の四年間の調査においてわかったことがたくさんあるけれども、逆にわかったことによって謎もたくさん出てきたことが真っ先に挙げられていました。

他には天守は形状が均整がとれていて、美しい天守であるということが魅力の一つではないかとおっしゃっていました。

木林先生からは、昭和17年の調査の時の写真がよく残されていて当初のスタイルがわかるとても貴重な資料となったこと、今回の調査においてそれらが優秀な資料として用いられたということが挙げられていました。

中井先生からは、創建年代が絞り込めたのは大きな成果であるということ、小高い山の上にあるからこそ丸岡城が魅力的なのだというお話でした。

松浦先生は、文献から丸岡城の役割などをさらに深く見ていくと魅力がもっと増すのではないかという話もありました。

丸岡城の魅力を発信しよう

最後に吉田先生から。

昭和15年から17年の調査でかなり詳しく調べられており、昭和23年の福井地震では残念ながら倒壊してしまいましたがその後に復元されたこと、今回の調査において震災前後の構造を比較しても震災以前とほぼ一致することや柱の7割程度、梁は6割程度が震災前の材料をそのまま利用していることなどを挙げられ、天守の創建年代としては最古とは言えませんでしたが、寛永期に作られたというところまで絞り込めたことも含め、丸岡城の魅力が損なわれたわけではなく新たに魅力が増したということを、地元の方々に強くメッセージとして言われていました。

このメッセージはとても印象深いものでした。

えてして、最古かどうかばかりが魅力のように思われがちですが、本質を知れば魅力はたくさんあるし、それをどのように発信していくのかが重要なポイントであるということですね。

国宝の指定について

筆者が一番気になっていた国宝指定についてですが、大きな言及はされませんでした。
事務局によると文化庁にて精査中とのことで、国宝指定されるのか、はたまた追加の資料などが求められるのか。

今後の動向に注目です。

まとめ

今回、丸岡城天守の調査が四年間行われ、さまざまなことが明らかとなりました。

特に天守の創建年代が年輪年代測定法や放射性炭素年代測定法、酸素同位体比年輪調査法などを総合して絞り込めたということは、他の現存する建物についても同様の調査を行うことによって、いつ頃建てられたものなのかが明確になることを示しており、特に松本城や犬山城などでは調査を実施して欲しいと思います。

ちなみに犬山城の調査委員会の委員長である麓先生は、この年輪年代測定法や放射性炭素年代測定法などによって犬山城天守の創建年代を明らかにする方針を表明されていましたので、今後犬山城天守においても創建年代が明らかになるものと期待します。

丸岡城天守の話に戻りますが、昭和23年の福井地震によって復元・再建された天守であるということから、あまり価値がないのではないかと思われがちですが、今回の調査によって丸岡城天守の魅力が増すような結果が発表されたことは、とても嬉しく思います。

今後も調査研究は続けられるということなので、さらなる結果が出されることを期待したいと思います。

最後に丸岡城天守が国宝になるかどうかについては、皆さんほとんど言及されませんでしたが、現在文化庁において調査報告書の精査が行われているようですので、何かしらの結果が出されるものと思います。

はっきりとした創建年代の確定まではなかなか難しいと思いますが、寛永期に建てられたというところまで絞り込めたことは成果と評価できるでしょうし、是非とも国宝に指定していただきたいと思います。

ということで長くなりましたが、丸岡城シンポジウムのレポートでした。

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