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大坂の陣、真田幸村の三段突撃

戦国時代最後の戦い、「大坂の陣」で名を上げたのはなんといっても真田幸村(信繁)であろう。
豊臣秀吉に重用された謀将・真田昌幸の次男である彼は、「関ヶ原の戦い」で父とともに徳川秀忠の軍勢を翻弄したことから、戦後は九度山に幽閉されていた。
それが幕府と豊臣家の関係が険悪化すると脱出、浪人として大坂城に身を寄せ、「大坂の陣」に参加することになったのである。

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まず幸村は「大坂冬の陣」で大活躍して見せた。
大坂城の弱点ともされる南側に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、幕府方の大軍を見事に防いで見せた。
このときまで幸村はほとんど無名の存在であり、家康は「大坂城に入ったのは幸村で、父親の昌幸はすでに死んでいる」という報告を聞いて安心したというが、この活躍には心胆を寒からしめるものがあったのではないか。

しかし、ひとりの英雄の活躍で勝てるものではないのが合戦だ。
両軍が講和して休戦になったところ、幕府方は講和の条件を無視して大坂城の堀を埋め立て、裸城にしてしまった。
結果として「大坂夏の陣」が勃発したが、もはや篭城戦はできない。
そこで野戦になったが、それでは冬の陣のときのような互角の戦いなどできるはずもない。
名だたる浪人も次々と討ち取られ、ついに大坂城まで押し込まれることになった。

最後の決戦において、幸村は乾坤一擲(けんこんいってき)の突撃によって家康の首を取り、それによって勝利をもぎ取ろうとしていた、という。
しかし、タイミングを合わせて攻撃するはずの別部隊は彼の思い通りに動いてくれず、また最後の切り札として豊臣秀頼じきじきの出陣によって士気を上げようとしたもののこれもかなわず、と運は最後まで彼に味方しなかった。
それでも全身を赤い武装で固めた「真田の赤備え」は繰り返し幕府軍への突撃を敢行、三度目にはついに家康本陣にまで迫った。
これに驚いた家康が自刃を口にするほどの迫力であったというが、幸村の奮闘もここまでだった。
三度目の突撃でついに力尽きた彼は戦死し、それからまもなく大坂城も落ちたのである。

結局、豊臣家は滅び、幸村もまた倒れたわけだが、彼の名は「真田日本一の兵(つわもの)」として多くの武士たちが語り継いだのだった。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2012年1月26日)

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