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若武者・木村重成の討ち死に

木村重成、という武将をご存知だろうか。
豊臣秀頼の乳母・右京大夫局の息子であり、秀頼の乳兄弟にあたる。
もし豊臣政権が長く続いたのならば、秀頼の側近として活躍することになっただろう――しかし、そうはならなかった。
豊臣秀吉の死後に台頭した徳川家康が江戸幕府を築き、秀頼を一大名へと追い落としたからだ。

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そんな重成の初陣こそが、戦国時代の最後を飾った大坂の陣である。
1度目の大坂冬の陣の際、若干20歳とも23歳であったともいう若武者の重成であったが、後藤基次(又兵衛)とともに戦功を上げ、また和平交渉の使者となって徳川秀忠の前に現れ、堂々とした振る舞いを見せた、という。

和平が破れ、大坂夏の陣が勃発すると、重成も再び出陣することになる。

しかし、天下無双の大坂城に篭もることができた先の戦いと違い、幕府方の謀略によって城の濠を埋められてしまったこの戦いでは、豊臣方は積極的に打って出るしかない。
結果、多くの犠牲者を出すことになる――その中の一人に、重成もいたのである。
1615年(慶長20年)の5月6日、重成の率いる一隊は河内方面の幕府軍を攻撃した。

奇襲によって藤堂高虎の軍勢は打ち破れたものの、続く井伊直孝の部隊にはかなわず、打ち破られてしまった。
このときに重成も戦死してしまったわけだ。
その後、重成の首は家康のもとに運ばれ、首実検の対象になった。

そして、その首の美しさに家康が感動した、という逸話が伝えられている。
自らの死を覚悟していた重成は出陣前に湯で自らを清め、髪を洗い、香を焚き染めていた。
誰かが自分の首を見るときがあっても見苦しくないように、という配慮だったのだろう。
また、兜を固定する緒も意図的に解けないようなものにしてあって、「二度と自分で脱ぐことはない」という覚悟が現れたものになっていた。

滅びを知った上で武士の誇りを貫こうとする若武者の覚悟こそが、家康という老将の心をも震えさせたのである。
現代の私たちにはなかなか理解しにくいところもあるが、「美しく死ぬ」というのもひとつの誇りの有様だったのだ。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2012年3月8日)
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