攻城団ブログ

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一泊二日で大河ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの地をめぐってきました

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記事執筆の背景、関係性の開示
この一泊二日の取材ツアーでの食事代(1日目の昼食と夕食、2日目の朝食と昼食)、宿泊費、および資料館への入場料は大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会が費用を負担されており、ぼくは自己負担なしで取材させていただいたことを開示しておきます。
(けっこうな時間を担当者たちと過ごしたので情が入っていることは否定しませんが、攻城団のプライドにかけてできるだけ公平に書きました)

11月27日と28日の二日間、大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会主催の取材ツアー【大河ドラマ「麒麟がくる」めぐりツアー】に参加してきました。
10か所以上のスポットを訪問するハードな日程でしたが、各地で現地ガイドの方に詳しく案内いただいたので充実した取材ができました。その成果はおいおい城メモに反映したり、大河ドラマの放送にあわせて記事にしていければと思いますが、まずは今回の取材ツアーの参加レポートを書きましたのでお読みください!

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はじめに

大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会とは

まず最初に大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会というのは、大河ドラマの誘致活動をおこなってきた団体で、福知山城の福知山市や田辺城址のある舞鶴市など、明智光秀のほか、娘のガラシャ(たま)、細川藤孝・忠興父子にゆかりのある京都北西部(京都府、兵庫県、福井県)の自治体で構成されています。
具体的には京丹後市・宮津市・若狭町・舞鶴市・福知山市・綾部市・丹波市・丹波篠山市・亀岡市・長岡京市・大山崎町が加盟されており、市だったり町だったりと行政区画はバラバラですが、光秀ら4人にゆかりのある自治体が参加されています。

www.taiga-kiringakuru.com

今回のツアーの概要

詳細はレポートを読んでいただくとして、京都駅発着で一泊二日。初日は勝龍寺城や丹波亀山城、福知山城など明智光秀と関わりの深いスポットを訪問して舞鶴市で宿泊。2日目は田辺城をスタートに若狭湾周辺の今度は細川藤孝(幽斎)にゆかりのあるスポットを中心に訪問して京都駅に戻りました。
参加していたのは出版社、テレビ局、旅行サイトの方を中心に10名ちょっとでした。マスメディアか旅行メディアといった感じで、攻城団の立ち位置は異色でしたね。

人物相関図と簡易年表

ご存知のとおり、明智光秀と細川藤孝は旧知の仲です。
光秀が足利義昭に仕えていた頃は藤孝の家臣という扱いだったようです。その後、織田家に仕えるようになるとふたりの立場は逆転して藤孝は光秀の与力(軍事行動を取る際は指揮下に入る関係)となりますが、光秀の三女・たま(のちのガラシャ)と藤孝の嫡男・忠興が結婚しているので、親戚関係になっています。
今回のツアーはこの4人(光秀、たま、藤孝、忠興)がメインですが、夫人や主君も含めた人物相関図を用意しました。ちなみにたまと忠興の結婚は信長の発案だそうですね。

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また今回の訪問地に関連した出来事を記載した年表を用意したので最初にざっとご覧ください。

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詳細な年表は後日掲載します

それでは取材の内容をレポートします。
なお二日間とも天気がいまいちだったので写真も曇天が多いのですが、じっさいはこの3割増しから5割増しくらいに思ってもらえるといいかと。

初日は明智光秀にゆかりのある場所を中心に訪問

朝9時に京都駅に集合して貸切バスに乗り込みます。

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貸切バス専用のバスターミナルにははじめていきましたが、こんなふうに案内が表示されるんですね。

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全員初対面なので社員旅行って感じでもないし、100%仕事なので観光バスツアーって感じでもないのですが、こういう立派なバスに乗るとちょっとテンションが上りますね。

宝積寺

最初の目的地は大山崎町にある宝積寺です。
JR山崎駅前でバスを降りて、ガイドの山本さんと和泉さんに案内していただきます。

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宝積寺は明智光秀、最後の合戦「山崎の戦い」の際に秀吉が本陣を置いたとされる寺です。
この戦いに勝利した秀吉はすぐに京都市内には城を築かず、まずこの天王山に山崎城を築城するのですが、この寺も城の一部に取り込まれています(そのため「宝寺城」の別名があります)。

境内にある三重塔は秀吉の命で建てられたと伝わっています。

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本堂前には秀吉が腰かけたとされる「秀吉の出世石」があり、柵で囲ってありますが自由に座っていいそうですよ。

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この日は時間の都合で山頂にある山崎城跡までは行きませんでしたが、見晴らしのいい山なので時間に余裕を持って訪問してぜひのぼってみてください。公式の案内では往復約2時間ということでした。
ぼくが過去にのぼったときの写真があるので紹介しておきます。

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大山崎町歴史資料館

その後、徒歩で移動して大山崎町歴史資料館を訪問しました。
館内の撮影は禁止だったので写真はありませんが、ちょうど企画展「国衆からみた光秀、藤孝 -丹波・乙訓と織田権力」が開催中だったので、その展示を見せていただきました(現在は終了)。

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来年も秋から冬にかけて「山崎の戦い(山崎の合戦)」をテーマにした企画展を開催予定とのこと。
大河ドラマでも「山崎の戦い」は最終盤ですから、ちょうどタイミング的にもよさそうですね。

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勝竜寺城公園

バスに乗り、つづいて長岡京市にある勝竜寺城公園へ移動しました。

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11月2日(土)にリニューアルオープンした際にも訪問しているのですが、あの日は人が多くてリニューアルされた資料館を見ることができなかったので、ちょうどよかったです。 

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ガイドの河野さん(偶然にも同じ名前でした)に北門跡の枡形や土塁も案内していただきました。

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奥に見えているのが天王山です。

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明智光秀は「山崎の戦い」で敗れるとこの城に撤退していますが、光秀が本陣を置いたとされる恵解山古墳までは歩いていける距離なので、あわせて訪問されることをオススメします(なお光秀本陣跡は大山崎町の境野1号墳の説もあり)。

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また長岡京市では毎年11月に長岡京ガラシャ祭が開催されていますが、来年はちょうど大河ドラマで「山崎の戦い」が放送される頃なので大賑わいが予想されますね。

昼食は「光秀愛妻御膳」

京都縦貫自動車道で亀岡市まで移動して、「がんこ 京都亀岡 楽々荘」でランチです。

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このミニ会席「光秀愛妻御膳」は予約制ですが、3506円(税・サービス料込み)で誰でも注文できます。

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また部屋から見える庭園(枯池泉回遊式庭園)は七代目・小川治兵衛(植治)による作庭です。
小川治兵衛というと、山縣有朋の別荘「無鄰菴」の庭園など近代日本庭園の先駆者といわれる作庭家ですね。

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この楽々荘は現在の京都銀行の前身である「亀岡銀行」の設立者・田中源太郎氏の生家を改築した建物ですが、京都の「がんこ」は明治時代の建築物を改築利用しているところが多いですね。
「がんこ 高瀬川 二条苑」も旧角倉了以邸でのちに山縣有朋が建てた別邸を改築していますが、ここの庭園も小川治兵衛によるものです。
(個人的には小川治兵衛の庭園めぐりも企画してみたい)

丹波亀山城

ランチ後は亀岡市文化資料館の駐車場から、ふるさと亀岡ガイドの会の森さんに案内していただき丹波亀山城を見学しました。
亀山城は「本能寺の変」の際に光秀が出陣した城ですね。

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現在は宗教法人大本の所有地となっていますが、誰でも自由に見学することができます。
敷地内に残る遺構のほとんどは江戸時代のものですが、天下普請で築かれた城だけあって、石垣の刻印などもたくさんあります。森さんによれば、17種・55か所は確認できているそうです。

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紅葉が見事でした。

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今回見学はできませんでしたが、亀岡市文化資料館では1月25日から第34回特別展「明智光秀と戦国丹波ー丹波侵攻前夜ー」が開催されます。来年は光秀関連の展示も増えるそうなので立ち寄ってください。

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ちなみに資料館の駐車場から見えるのが光秀が「ときハ今 あめか下しる 五月哉」という歌を詠んだ愛宕山です。

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またJR亀岡駅そばの京都スタジアム内特設会場で「麒麟がくる 京都大河ドラマ館」が1月11日(土)にオープンしますので、こちらも楽しみですね。

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福知山城

初日最後の訪問地は福知山市です。
福知山市は明智光秀や福知山城を積極的にPRされていますが、地元が一丸となって郷土の歴史を伝えようとするのはとてもいいことですよね。
(もっとも築城は光秀ですが、ここの城主は女婿の明智秀満なので秀満についても紹介してあげてほしいです)

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ガイドの塩見さんも地元の方とおっしゃっていましたが、もともと福知山の地は国人衆の塩見氏が支配していました。いまでも塩見姓の方がたくさんいらっしゃるそうです。

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福知山城の天守台には多数の転用石が使われていることで有名ですが、その数はざっと500個もあるとか。
余談ですが塩見さんによればもっとも多いのが大和郡山城の700個で、ぼくは知らなかったのですが二条城にも200個の転用石があるそうです(ほんとかな)。

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墓石や五輪塔などが使われているのですが、おもしろいのがその向きです。
戒名が彫ってある面は下を向いています。ほかにも模様がある面は必ず下または外を向いているのですが、これは水がたまらないようにする工夫とのこと。

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城内には光秀の人形が展示されています。

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塩見さんは有名な三英傑とホトトギスの川柳を例に、光秀は「鳴かぬなら放してやろうホトトギス」と語ったんじゃないかと話されていましたが、ここまで慕われているのはすごいなと思いました。

なお1月11日(土)にはこの福知山城公園内にある佐藤太清記念美術館に「福知山光秀ミュージアム」がオープンします。
美術館である特長を活かして、家中軍法(御霊神社蔵)や明智光秀肖像画(本徳寺蔵)など大河ドラマ館には展示できない貴重な資料が特別展示されるそうですよ。

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御霊神社

そのあと徒歩で御霊神社まで歩きました。
ここは明智光秀の霊を祀る神社で、「明智光秀家中軍法」や直筆の書状など光秀に関わる貴重な品が納められています。

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着いたのが夜だったのでゆっくり見ることができなかったのですが、ここの御朱印には桔梗紋が入っているのでぜひいただいてください。

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帰る間際にあわてて書いていただいて墨が乾ききる前に挟んじゃったため、汚れてますがご容赦ください

その後、バスで舞鶴市まで移動して「ホテル アマービレ舞鶴」に宿泊しました。
夕食はホテル近くの「魚源」というお店で懇親会がありました。

【ホテル】ホテル アマービレ舞鶴 | 攻城団

2日目はガラシャや細川藤孝にゆかりのある京都北部のスポットを中心に訪問

この日もバスでの移動中に小雨が降るような天気でしたが、幸い見学中は雨が降らなかったので傘をさすことなく取材ができました。

田辺城

2日目のスタートは田辺城(田辺城資料館)です。
「関ヶ原の戦い」の前哨戦のひとつ「田辺戦の戦い(田辺戦籠城戦)」の舞台ですが、細川藤孝が築城したものの、その後の京極高知の時代に拡張され、さらに牧野氏が幕末まで城主をつとめています。

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案内してくださった吉岡館長によればここまで大きくなかっただろうとのことでしたが、この大手門の2階が田辺城資料館となっています。

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本物の火縄銃や兜、頬当てを自由に試着できるので外国人にも人気だそうです。

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田辺城は建物こそ復元ですが、舞鶴公園はかなり広範囲に敷地が残っていますし、江戸時代に田辺藩主となった牧野親成は徳川秀忠の小姓をつとめ、板倉氏のあとに京都所司代に任じられた優秀な人物なので、個人的には牧野氏を中心とした江戸期の田辺藩の様子をマンガにしてみたいと思いました。

池泉回遊式庭園も残っていてきれいですよ。

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20人体制でガイドがいらっしゃるそうなので、訪問される際は予約することをオススメします。

ちなみにこれは資料館のすぐそばにある舞鶴市立明倫小学校に移築された藩校「明倫館」の門です。

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ふだんは閉まっているのですが、卒業のときだけ開門されてここから帰っていくそうです。こんなふうに大事に使われてるのって素敵ですよね。

若狭鯖街道・熊川宿

バスに乗り、舞鶴若狭自動車道を走って熊川宿へ。
ここは若狭と京都を結ぶ鯖街道の宿場町として有名ですが、じつは今回の大河ドラマにも深く関係する場所でもあります。

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細川藤孝の正室で、細川忠興の母の麝香(じゃこう)はこの地にあった熊川城主・沼田光兼の娘です。
麝香の名字が沼田であることは勝龍寺城に「沼田丸」という曲輪があることで知っていましたが、若狭の人だとは知りませんでした。

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少し時系列を整理すると、藤孝と麝香の結婚は1562年(永禄5年)頃とされており、1563年(永禄6年)には忠興が生まれています。
藤孝は幕臣として仕えていた将軍・足利義輝が三好三人衆により殺害されたため、興福寺に幽閉されていた覚慶(のちの足利義昭)を救出するのですが、これが1565年(永禄8年)のことですから、それより前に結婚していたことになります。

なんでもふたりのなれ初めは将軍・足利義晴の取り成しだそうです。沼田光兼も将軍に奉公衆として使えていたので、その関係で娘を藤孝に嫁がせるよう、命じられたそうです。ふたりは室町時代から江戸時代まで生きるわけですが、まさに「苦楽をともにした」と呼ぶにふさわしい夫婦です。
大河ドラマをきっかけにこうした歴史を知ることができるのも楽しいですね。

また得法寺には1570年(元亀元年)に織田信長の越前攻めに同行した徳川家康が宿泊したといわれ、境内に「家康腰かけの松」があります。

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今回は若狭熊川宿まちづくり特別委員会の宮本会長のほか、ボランティアガイドの宮本さん、下嶋さんに案内していただきました。
お城メインで紹介しましたが、熊川宿の町並みは素敵ですし、この地で使われている若狭瓦は江戸時代は船の重しにも使われていたそうで、北前船経由で北海道の小樽などにも伝わっています。こうしたエピソードも案内してもらえるので、訪問される際はガイドの予約をすることをオススメします(90分1000円)。

昼食は「桔梗御膳」

ふたたび舞鶴若狭自動車道を走って、熊川宿から宮津市まで移動します。
2日目のランチは茶六別館で「桔梗御膳」をいただきました。

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ここでは京丹後市の方から味土野女城(味土野城)の紹介をしていただきました。
ガラシャが明智光秀の娘であるために幽閉された城ですね。ただし幽閉とはいっても忠興は何度も通っているようで、事実この間にも子どもを産んでいます。

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味土野女城は石碑のあるところまでクルマでいけるそうですが、かなり道幅が狭いようなので運転に自信のない方はやめたほうがいいかもしれません。
ただ麓から歩くと片道2時間らしいので、運転の上手い人に乗せてもらうか、タクシーでいくのがいいと思います。
(バス会社による歩くツアーも組まれているようです)

地元では「味土野の女城(みどののめじろ)」と呼んでいるそうです。

宮津城跡

バスに乗り、ガラシャ像がある大手川ふれあい広場へ移動して、学芸員の河森さんにガイドしていただきます。

ガラシャ像の後ろにあるのはカトリック宮津教会で、ここは1896年(明治29年)にフランスのルイ・ルラーブ神父が建てた天主堂です。外観はフランス風ながら、堂内は畳敷きだそうです。

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宮津城はそのほとんどが市街地化されているのですが、川沿いに石垣が復元されています。

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盛林寺

つづいてバスで10分ほど移動して盛林寺(せいりんじ)に向かいます。
このお寺は上宮津城主・小倉播磨守の菩提寺です。小倉氏は丹後守護・一色家の重臣だったのですが、細川藤孝に敗れて滅亡しています。

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ここには「明智光秀」の首塚があります。

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なぜここに首塚があるのかはわからないのですが、一説には秀吉からガラシャの元に光秀の首が届けられ、それを供養したそうです。さすがにそれはないと思うのですが、首塚があるということは遺髪かなにかが届けられたのでしょうね。

天橋立・智恩寺

取材の最後は「日本三景」のひとつである天橋立にある智恩寺です。
じつは天橋立は「本能寺の変」の約一年前、1581年(天正9年)4月に細川幽斎・忠興父子が光秀や里村紹巴らを招いて茶会を開いた場所なのです。この茶会にはガラシャも参加しており、おそらく光秀が娘と会った最後の日だとされています。

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智恩寺の境内には扇子の形をしたおみくじが境内にたくさんぶらさがっています。「すえひろ扇子」と呼ばれるこのおみくじ、かわいいですよね。

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ちなみに細川氏時代、宮津城から田辺城への移動には、地元の漁師に船を出させて海路で向かったそうですが、そういう船のツアーがあると楽しそうですね。

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京都に長年住んでいてもなかなか丹後のほうまでいくことはなくて、じつは天橋立もはじめてでした。
今回は時間がなくて上から見ることもできなかったので今度はゆっくりプライベートで訪問したいと思いました。京都丹後鉄道も乗ってみたいですしね。

最後はプレゼン大会

バスで京都駅に向かう途中、「道の駅 京丹波 味夢の里」 に寄って、今回訪問することができなかった3市(綾部市、丹波市、丹波篠山市)の担当者のプレゼンテーションを聞きました。

綾部市

「綾部市は明智光秀との関係が薄いので」と謙遜されていましたが、そんなことはなくて、山家城(甲ヶ峯城)の和久氏は光秀に攻め滅ぼされています。

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このときの経緯がおもしろくて、当初光秀は「降伏して廃城にすれば許す」といっていたのですが、和久氏が「ここは城ではなくてお寺(照福寺)です」と返答したので怒って攻められたとか。おそらく城郭寺院に近かったのだと思いますが、照福寺は和久氏の菩提寺であることから破却したくなかったのでしょうね。

なお和久氏は福知山城の紹介で出てきた国人衆の塩見氏の分家にあたるので、滅亡させられた側の視点に立ってみると福知山と綾部のつながりが見えてきますし、そういう歴史の見方を楽しめる人もたくさんいると思います。

現在は谷衛友が「本能寺の変」後に山麓に築いた山家陣屋跡の模擬櫓門が山家資料館となっています。
ここの見学は事前予約が必要なので訪問される際はご注意ください。

丹波市

つづいて丹波市の担当者がプレゼンされました。
明智光秀の丹波攻略でもっとも苦戦したといわれる「黒井城の戦い」をアピールされていました。歴史好きな方ということもあり、熱のこもったプレゼンテーションでした。

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大河ドラマでどのように登場するのかはわかりませんが、たしかに赤井直正との戦いは見せ場ですよね。
歴史のIf(もしも)として、直正が1578年(天正6年)3月に病死していなければ、光秀の丹波攻略はさらに手間取っていた可能性があります。
ドラマを盛り上げる、いい敵役として登場するといいですね。

最近は黒井城も雲海が見えるお城として注目を集めていますが、落城後に光秀は重臣の斎藤利三を城主に任じていますし、「山崎の戦い」で光秀が敗れたあとは羽柴秀吉の家臣である堀尾吉晴が城主となっていることを踏まえても、重要な城であったことが伺えます。

大納言小豆の産地でもあるので「ぜんざいフェア」などもやってるそうです。
ちょうど道の駅の売店に売ってたので買って帰ったのですが、甘いもの好きとしては現地でも食べてみたいです。

丹波篠山市

最後は篠山城のある丹波篠山市です。
篠山城は江戸時代の城なので、今回は波多野秀治の居城である八上城をメインにプレゼンされていました。

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丹波篠山市では特設サイトもつくられていて、当日もチラシをいただいたのですが、光秀が八上城に母のお牧を人質に差し出した(そして信長が約束を守らなかったために母を殺されたのが「本能寺の変」の動機となった)という、現在は否定されている説を根拠にされているのが気になりました。
担当者の方は「NHKのストーリーに準じている」とおっしゃっていたので、もしかしたら「麒麟がくる」ではこの説が採用されるのかもしれません(まだ後半の脚本はできてないと思うんだけど)。ドラマではお牧の方を石川さゆりさんが演じるということもあり、その可能性もゼロではないんですよね。

「本能寺の変」の動機についてはいまもいろんな説があるわけですが、今回の大河ドラマでどの説をもとに脚本が書かれるのかはみんなが気になってる点だと思います。
ドラマなのでフィクションとして楽しめればいいと個人的には思っているのですが、できれば歴史にそこそこ詳しい人にも「なるほど、そうきたか」と思ってもらえるようなストーリーになっているといいですね。

この時点で予定時間を1時間以上過ぎていましたが、京都縦貫自動車道を走ってスタート地点の京都駅まで戻って解散しました。

ツアーの感想など

かなりかいつまんで各スポットを紹介しましたが、大量の資料とメモを整理するのに一週間近くかかるほど濃密な取材ツアーでした。写真の枚数も600枚以上撮ってました。
今回の取材ツアーでは明智光秀を中心に、ガラシャ、細川藤孝・忠興との関係性を切り口に各地をめぐってきましたが、できればここを入口にいろんな方向に興味のリンクを伸ばしていきたいなと思います。

細川藤孝の奥さんの実家が熊川にあることも今回はじめて知りましたが、ほかにも光秀に攻められた丹波や丹後の人たちの関係性だとか、「山崎の戦い」や「関ヶ原の戦い」のあとの各地の歴史なども学ぶときっとおもしろいはずです。
たとえば丹波の地には足利尊氏が旗揚げした篠村八幡宮があり、そのため波多野氏と赤井氏たちは代々足利将軍家に忠誠を誓っていました。丹波の国人が信長に敵対するようになったのは、信長が義昭を京から追放したことが理由です。
こうした背景を知った上で、光秀の丹波攻めを見ると、いかに大変だったかがわかりやすくなりますよね。

個人的には御城印であれ、大河ドラマであれ、チャンスがあればどんどん乗っかればいいと思いますし、そうやって集めた注目を大事に育てていくためにも来年だけで終わらせないで、再来年以降にどうつなげていくかを考えてほしいし、応援したいです。

攻城団ももちろん大河ドラマには乗っかりたいと思っていますが、「麒麟がくる」の視聴率に関係なく、今回取材した各地域の歴史的魅力を発信していけたらいいなと考えていますので楽しみにしていてください。
そしてひとりの大河ドラマ好きとしても「麒麟がくる」がほんとに待ち遠しいです。「真田丸」のときのようにみんなで毎週語り合えるといいですね!

冒頭に書いたとおり、この記事の掲載にあたり広告費は1円もいただいておりませんが、取材経費をご負担いただいたため公平を期すため「広告」のカテゴリーとして公開します。

ほかのメディアの掲載記事

いっしょにツアーに参加したほかのメディアの方が書かれた記事も紹介しますね。
ぜひ読み比べてみてください!

tabizine.jp

tabizine.jp

www.travel.co.jp

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