攻城団ブログ

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「麒麟がくる」第2回に登場した古渡城と田代城、小熊城、大桑城はどんなお城か

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いやあ、第2話もおもしろかったですね。
織田信秀の軍勢に熱田神宮の大宮司・千秋季光(せんしゅう・すえみつ)が同行していたのはよかったですね。季光は「加納口の戦い」で戦死したので、彼の息子の千秋季忠(せんしゅう・すえただ)は信長に仕えましたが、「桶狭間の戦い」で討死しています。
親子そろって織田家に振り回されて命を落としていますね。

なお刀剣好きな人は季光が平景清が所持していたという名刀「癬丸(あざまる、蘚丸とも書く)」を持っていたというエピソードで知ってるかもしれませんね。この話は『信長公記』に出てくるのですが、景清が刀に自分の顔を映したとき、あざがあるように見えたから「癬丸」と名付けられたとか。
「加納口の戦い」で斎藤家の家臣、陰山掃部助(陰山一景)が奪ったそうですが、その後、信長家臣の丹羽長秀が入手して熱田神宮に再び奉納しています。
癬丸は持ち主に祟りをなす――いわゆる妖刀で、千秋親子も討死しているし、陰山掃部助も両目を射抜かれて討たれます。さらに長秀も眼病に悩ませられたので熱田神宮に奉納したというわけです(それで眼病は治ったとか)。
この癬丸はいまも熱田神宮に所蔵されています。

さて、第1話と第2話を通じて「矛盾を抱えてる光秀」というのがひとつのテーマなのかもしれないと思いました。
人として好きにはなれない主君に仕えることや(これは斎藤道三だけじゃなく、のちの信長への布石なのかな)、敵を殺すことに武士の本懐など感じないけど討たなきゃ自分が討たれるからやるしかないとか(比叡山焼き討ちにつながる?)、戦国の世にあるいろんな矛盾を受け入れる=清濁併せ呑むというのが「麒麟がくる」なりの「本能寺の変」の解釈につながっていくのかなあと思いながら見てました。
まあ2話で理解できるほど薄っぺらい脚本を池端さんが書くわけないんですけど。

というわけで、お城の紹介です。今回もいくつかお城が登場していました。
(ドラマ内でのお城のシーンとしては稲葉山城だけでしたので、基本的には地図やセリフでの登場となります)

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古渡城――織田信長が元服したお城――

まず冒頭のシーンで地図が表示されていましたが、美濃に攻め込む織田信秀の軍勢のスタートになっていたのが古渡城です。

この城は1546年(天文15年)に織田信長が13歳で元服した城として知られています。
ただドラマの舞台となった1548年(天文17年)、まさに美濃へ侵攻して留守になった際に尾張国内で敵対する坂井大膳らに攻められました。おそらくこのときに町を焼かれたこともあり、信秀は末森城を築いて移ったため、廃城となっています。現在、跡地には城址碑が建てられています。
信長は清州城から小牧山城、岐阜城、安土城と築城&居城移転を繰り返していますが、父親に似ているのかもしれませんね。

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田代城、小熊城――織田信秀に攻め落とされた城――

また合戦シーンで「注進!」と駆け込んできた伝令が「田代城(でんだいじょう)が落城! 小熊城(おぐまじょう)も落城の由、御免!」と伝えていましたが、田代城は森可成が城主をつとめた城です(もしかするとこの時期は可成の父の森可行がまだ城主だったかも)。
可成というと(その子の長可や蘭丸の知名度もあり)織田家家臣のイメージが強いと思いますが、もともと森氏は代々土岐氏に仕えていました。道三との関係はよくなかったため織田家に通じるようになりましたが、このときは美濃側の城として攻め落とされたようですね。

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もうひとつの小熊城は岐阜県羽島市にある城で平安時代後期に小胡麻維季が築城したとされるのですが、正確な情報がなく、「日本城郭大系」にも記載がありません。
城の位置がわからないことには攻城団に登録ができないので、羽島市教育委員会に問い合わせています。

大桑城――美濃守護・土岐氏の守護所――

最後に毒殺された土岐頼純に対して帰蝶(濃姫)が「大桑の城をご出立されるとき、殿は父と織田方とどちらが勝つとお思いでしたか」と怒りをぶつけていましたが、大桑城は美濃守護である土岐氏の守護所が置かれた城です。
(頼純に嫁いだ道三の娘が帰蝶かどうかは定かではないはず)

頼純は叔父にあたる土岐頼芸と守護の座を争っていますが、もともとは頼純の祖父・土岐政房が嫡男であり頼純の父である土岐頼武に家督を継がせず、次男の頼芸に継がせようと考えたため、家督争いが起こりました。
頼純は父の死後も頼芸と争い、のちに両者は和議を結ぶことになりますが、斎藤道三によって頼純は毒殺され、頼芸は尾張へ追放されました。なお頼純の毒殺は1547年(天文16年)とされているので、ちょっと時系列がドラマと前後しています。

なお大桑城は道三の手によって焼かれたのですが、いまはミニチュアの模擬天守があります。

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p.s.
羽島市教育委員会から回答をいただきましたが、小熊城の所在や情報について記載があるものは確認できなかったそうです。
小熊の地はもともと墨俣川(長良川)と流れが変わる前の木曽川(現在の境川のあたりを流れていました)の合流地点で、渡し船も就航していた交通の要衝であったため、その要衝を守る塁のようなものは当時にもあったのではとのことでした。

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