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明智光秀と帰蝶(濃姫)ーーあるいは歴史の陰の女

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斎藤道三の娘、帰蝶(濃姫)は『麒麟がくる』のヒロイン的ポジションとして目されている重要なキャラクターである。昨年末には演者にトラブルがあって急に代役を立てることになったが、川口春奈は十分に独自の存在感を示しているように見える。

そんな演者の奮闘はともかく、歴史的に考えた時に帰蝶は非常に難しい人物である。近世より前の女性としてはよくある話なのだが、史料の中に名前がほとんど出てこないのである。
いや、それでも彼女は幸運な方かもしれない。名前がわかっているからだ。通称しかわからないどころか、家系図に「女」としか記されず、歴史書なども「誰それの娘」「誰それの妻」としか語らない女性は山のようにいるからだ。

数少ないわかっているところを拾ってみよう。
まず、道三の娘であることは間違いない。母親は明智一族から出た小見の方であり、そこから光秀と帰蝶は従兄弟関係にあったという説もある。ドラマではこの説が採用され、若き日の光秀と道三一家の深いつながりが描かれている。このことがやがて織田家臣となった光秀に影響を与えるのであろう。

その道三は、長年敵対関係にあった織田信秀と和解するため、帰蝶と信秀の息子・信長を結婚させた。1549年(天文18年)ごろのことである。典型的な政略結婚であり、この時代いくらでも見られた話だ。その後、帰蝶の存在は歴史の陰に消えてしまう。史料に名前が出てこず、どこで何をしていたのかわからないのだ。

数少ない手がかりとして、1554年(天文23年)に那古野城内で誕生した信長の子・信正のエピソードがある。彼を生んだのは織田家臣の妹であったが、「御台(正室)」の反発によって城内で養育することは叶わなかった、という。信長の御台と史料に記されるのが誰かは判別つかないことが多いのだが、ここでは帰蝶のことであろうと考えられている。

また1569年(永禄12年)、信長の宿敵であった義龍の遺灰が入った壺を巡るエピソードもある。信長は義龍の妻からどうにか壺を奪おうと思ったができなかった。なぜ諦めたかというと、「信長の本妻ほかの女性たちが自決するからだ」という。ここでいう本妻もやはり帰蝶のことであろう。この二つのエピソードから、彼女が相当に気の強い女性であったのだろうと推測することもできる。

ただ多くの場合、歴史において信長寵愛の人として語られるのは帰蝶ではなく、生駒氏出身の吉乃という女性だ。嫡男の信忠やその弟の信雄らを産んだことがわかっている。
では、帰蝶はどうなったのか。いくつか説がある。ひとつは、意外に長生きをした、という話だ。「信長公御台」が1612年(慶長17年)に亡くなって墓もあった、という史料が存在するのである。この場合、彼女は織田信雄に扶養されて生きていたことになるが、信雄の立場からすると怪しく、別の信長寵愛の女性と混同したものではないかと疑義が提示されている。

もうひとつは、信長が1576年(天正4年)に安土へ本拠地を移すよりも前も前の段階で、帰蝶はすでに亡くなっていたのではないかという説だ。こちらも特段の証拠はないが、長寿説よりは信憑性があるように思われる。
このように歴史的にはどうにもあやふやな帰蝶であるが、それだけに物語の中で活躍させる分には自由だ。『麒麟がくる』が彼女をいかに描くか、今後も楽しみにしたい。

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