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明智光秀と斎藤義龍ーーあるいは道三とのつながりの謎

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斎藤義龍(義竜)。今年の大河ドラマ『麒麟がくる』においては伊藤英明さんが賢くも迷える若者を好演されているのが印象的だ。作中で呼ばれていた「高政」というのは短い時期だけ名乗っていた名前だが、これを敢えて名乗らせるということは、大河ドラマチームとしても義龍をよくある「信長の前に立ち塞がった敵役の一人」にする気がないのだな……と感じるものがあった。

義龍は道三の嫡男である。誕生は1527年(大永7年)であるから、この頃の道三は土岐頼芸と深く結びつき始めていた時期だ。父の代からの新参の美濃武士で、土岐氏にとって直接の家臣と言えたかも怪しい道三にとって、いかに土岐氏の主流から外れていた頼芸の信頼を得て、彼を盛り立てるかが立身出世のための一大事であったはずである。
そのせいか、義龍には怪しげな噂がある。彼の母は頼芸の妾・深芳野で、彼女が道三の妻となった時その腹にはすでに義龍があった、というのである。かなり広く知られた話であるが、史実的にはほぼ完全に否定されている。義龍と道三は明らかに血の繋がった親子で、同時代に噂としてさえこの話があったかどうか怪しい。後世の創作であろうと考えられるが、有名な話だけにドラマに組み込みたかったのだろう。『麒麟がくる』での、親子不仲のきっかけ、また頼芸が義龍を籠絡せんとする手段としての使い方はなかなかうまいと言っていいものだ。

噂の話はともかく、義龍は美濃の実質的な国主となった道三の後継となり、老いた父からその地位を継いだ。ところが、この二人の関係はそもそもあまり親しいものではなかったようだ。道三が義龍の実母(稲葉一族のものとされる)の死後に後添えの妻を迎えたことも原因としてあるのだろう。この妻が明智氏の生まれであることは既に紹介した通り。
史実における明智光秀と義龍に関係性が見出せるとしたらこのように「義龍の義母が光秀の親戚だったらしい」の一点で、遠い親戚ということになる。ただ、一般論的に「後継者(この場合は義龍)のもとに、自分(この場合は道三)と関係が深かったり有望だったりする若者を集めて縁を作り、将来の側近にする」というのは治世者の振る舞いとしてよくあるものだ。そのため、作中における光秀と義龍の関係はいかにもありそうなものといえる。

けっきょく家督継承から7年後、道三が義龍の弟を改めて後継者にしようとしたことで両者は決定的に決裂し、義龍は父を攻撃した。この時、道三の娘婿である信長が救援の兵を出したが間に合わず、道三は死んだ。父殺しの直前、義龍は「范可」を名乗っている。これは中国の故事において父を殺した男の名で、義龍の堅い決意を示していると考えてよいだろう。
なお、義龍はのちになって姓を斎藤から一色に変えている。これは土岐一族との関係を強くアピールするためのもので、父の関係性を薄くすることが目的であったろうが、こんなところものちに噂が出る原因になったのだろう。

父を殺したあと、義龍の治世はどうであったか。これはなかなか盤石のものであったようだ。
そもそも隠居からしばらく立っていたとはいえ、かつての国主である道三を殺せるだけの兵を集められたということは、義龍が美濃国内をがっちり固められていたことを示している。また、信長は尾張統一と今川義元の脅威を廃した後は美濃進出を狙っていたが、ついに義龍存命中はかなわなかった。彼が病によって急死したことから、美濃の情勢は大きく変わっていくのだ。

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