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明智光秀と徳川家康ーーあるいは本能寺の引き金

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徳川家康は織田信長・豊臣秀吉と並んで大河ドラマに繰り返し登場し、数々の名優が演じてきた人物だ。ただ、いわゆる「三英傑」のほか二人が強烈なイメージを持っていて、演者も少なからずそちらへ引っ張られていたのに対して、家康にはかなり演技の余地があったように思う。
今回、信長も、秀吉も、それぞれ歴史学の新しい成果を受けて独自のキャラクター像を作り出そうとしている中で、家康がどんな人物として浮かび上がってくるのか。今後「麒麟がくる」を見ていく中での重要な楽しみとなるだろう。

その家康は三河国の国人、松平家の嫡子としてこの世に生まれた。松平家は戦国乱世に乗って一時は三河一帯を広く支配するほどに力を得たが、浅利陽介演じる父・松平広忠の代には隣接する駿河・遠江の今川義元に従わざるをえない状態に追い込まれていた。幼き日の家康、幼名を竹千代が今川家で人質時代を過ごさなければならなかったのも、すべてはそのためである。
成長した彼は義元の名をいただきた「松平元康」として今川家のために戦ったが、義元が桶狭間の戦いで信長の前に倒れるや、旗幟を変えた。今川の支配下から独立して信長と同盟を結び、以後織田家にとって最も重要な同盟者(実質的には傘下の大名と見る向きもある)として信長の活動を支えることとなったのだ。

この時代の家康について、光秀と深く関わるエピソードがいくつかある。一つは、金ヶ崎撤退戦の時のことだ。越前・朝倉家攻めの最中に妹婿である浅井長政の裏切りにあった信長は、しんがり(撤退の最後尾で敵の攻撃を受けながら引き下がる役目)として幾人かの武将を残し、自身はわずかな供とともにまず京都へ、そして岐阜へと逃げ惑った。この時にしんがりという困難な役目を達成した武将として後世に名が残っているのが、織田家臣の木下藤吉郎(豊臣秀吉)、有力な同盟者である徳川家康、織田傘下に入った摂津の有力大名・池田勝正、そして明智光秀なのである。もちろん「麒麟がくる」でもドラマチックなエピソードとして描かれるはずだ。

もう一つは、信長の天下取りもいよいよ完成に近づいた1582年(天正10年)のことである。この年、信長は長年の宿敵であった武田家撃破の祝いとして、対武田の盾として貢献してきた家康を本拠地の安土城に招き、大いにもてなした。その担当者に選ばれたのが光秀であったのだ。
ところが、光秀は突然この役目から下されてしまう。どうしてそうなったかは色々な説があって、単に代わりに出陣を命じられたという話から、その前に「魚が腐っている」と信長から叱責を受けていたという話まである。また、役目から下された光秀が道具を川に捨てて怒ったという話もあって、これらの怨恨が本能寺の変につながった……という解釈もしばしば行われる。

その真偽はともかく、家康は安土で饗応を受けたあとしばらく畿内で過ごしていたところ、「本能寺の変」が起きて窮地に陥った。苦難の末に三河に戻って信長の仇を討とうとしたところ、光秀は秀吉に敗れてその機会を失った……というのが史実である。しかし、信長存命のままなら徳川家は織田家に飲み込まれていたのではないかという見方もあり、この対応策として家康は光秀と密かに手を組んでいたのでは、裏から操っていたのでは、という想像がしばしば物語の題材となっている。「光秀は天海僧正になって家康を助けた」という有名な話もこれと関係している。
その後の家康はあまりにも有名だ。信長の実質的な後継者となった秀吉と戦ったあと服従し、秀吉死後に関ヶ原の戦いで天下を取った。ここから約二百五十年の太平の世が訪れるのだ。

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