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1.戦国大名の誕生

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戦国大名の誕生

平安時代後期、軍事階級としての「武士」が生まれた。
自衛手段を必要とした農民たちや、軍事的技術を備えた狩猟民、また貴族たちのうち軍事的役割を担ったものたちが母体である。
彼らは血縁・地縁による集団として「武家」を形成し、また特に力を持つ武士・武家を称して「大名」とも呼ぶようになった。
どこかで「1万石以上の石高を持つ武士(武家)が大名」という定義を聞いたことのある人もいるだろう。
ところが、それは江戸時代に入ってからのことなのだ。それ以前には、「どのくらいの勢力がある」から大名、という区分は存在しない。あくまで「周囲の武家と比較して大きい力を持っている」から大名と呼ばれたわけだ。

このように、私たちがしばしば無造作にその名を呼ぶ武士/武家/大名たちの存在・定義は、実際のところ歴史において普遍でもなんでもなく、時代に合わせる形でその性質を多様に変化させていった。
室町時代において、幕府は有力な武士たちを「守護」という役職に就け、各国の統治を任せていた。彼らの中には数ヶ国の守護職を独占するほどの有力者もいた。彼らを称して「守護大名」と呼んだ。
守護大名たちは室町幕府の政治に強い影響力を持っており、当時の幕府は頂点として足利家出身の将軍を戴きながらも、実質的にはある種の合議制を形成していた。
いきおい守護大名たちは基本的に京で幕府政治に関わることになり、実際の統治は守護の家臣である「守護代」が行うことになった――が、さらに実際には守護代たちも京に常在することが多く、国元には守護代のさらに代理である「又代」が置かれる、というケースも多かったようだ。
また、有力な武士はたびたび上洛し、朝廷・幕府とのつながりを持っていた。

ところが、10年にわたる内乱である応仁の乱や、有力幕臣によるクーデターである明応の政変といった事件によって室町幕府が実質的な権力を失うと、各地の武士たちは自らの勢力を守るために小競り合いを繰り返すようになった。戦国時代の到来である。
その中で、守護大名や守護代、また有力国人たちは生き残りをかけてそれぞれに変質していくようになる。
そうして強大な力を有するようになった武士たちを称して「戦国大名」というわけだ。

初期の戦国大名の立場

戦国大名たちの支配は決して安定したものではなかった。
周辺勢力との小競り合いが日常的だったのはもちろんだが、それ以上に彼らの家臣たる地付きの武士――国人(あるいは豪族、土豪、地侍とも)が問題だった。

彼らは下級武士(ほとんどが半農半兵で、普段は農民として農業に従事するが、何かことがあると武具を身につけて出陣する)を取りまとめる存在で、小なりといえど独立勢力的傾向が強かった。
より有力な武士、すなわち戦国大名の支配下に入りながらも、しばしば独自の思惑で行動し、場合によっては国人たちが「一揆」と呼ばれる連合体制を作り上げて大名を脅かすことさえあった。山城国一揆や伊賀国一揆などがその代表例である。

このあたりは鎌倉時代に成立した「御恩」と「奉公」の概念――主人がもともとの所領を所有し続けることを認めたり新たな所領を与えたりする代わりに、従者が軍事活動などで奉仕する、ギブ・アンド・テイクの関係とまったく変わらない。
そこには私たちが「武士道」の名のもとに想像するような片務的な忠義が割り込む隙はなく、冷徹なまでの利害関係だけがある。

たとえば、下克上の代表的人物の一人に数えられる「美濃の蝮」斎藤道三の例を挙げてみよう。
彼はもともと京の武士の血筋であったが、父の代に美濃へ入って美濃守護・土岐家で頭角を現し(有名な「油売り商人から一代で身を立てた」説は現在ほぼ否定されている)、ついに美濃守護代・斎藤家を継承するとともに土岐家を滅ぼし、美濃一国を手に入れてしまった。
しかし、やがて息子の義龍との関係が悪化、家督を譲ってもその関係は修復せず、内乱の末に息子によって倒されてしまう。

道三の下克上においても、また息子・義龍の父殺しにおいても、美濃国内の国人たちが大きな役割を果たしている。
彼らは代々仕えてきた主家を見限って道三につき、さらにその道三も裏切って義龍についたわけだ――自らが生き残るためにどうするべきか、を計算した上で。

国人の立場が強かったことについては、そもそも少なくない数の戦国大名たちが守護代や国人から出発し、下克上的に主君(守護)を打倒することによってその勢力をのっとり、周辺へ進出してさらに勢力を伸ばしてその地位に就いていたことも大きい。
なぜなら、大名の配下となった国人衆や外様衆はもともと大名と同格の国人であったため、従わなければいけない大義はなかったからだ。
その戦国大名の力が強く、将来性が豊かなうちはいいが、内紛が重なったり、外敵との戦いに負けたり、周辺に強大な勢力が誕生したりすると、国人たちが一気に離反してしまうことも十分にありうる。

これに対して、戦国大名と同じ一族に属する一族衆や、古くから戦国大名の氏や家に仕えてきた譜代衆などは比較的信頼性が高い武士たちといえる。
その一方で同じ一族での内乱が日常茶飯事だったのもまた事実であった。
たとえば織田信長が長く尾張国内で同族同士の争いを続けなければならなかった(最終的な決着がついたのは桶狭間の戦いよりさらに後、斎藤龍興と美濃を巡って争う中でのこと!)ことを考えれば、同じ一族であっても気を許すことはできなかったといえる。

「大義名分」は大名の命綱

このような事情から、戦国大名たちは自らの政治権力を強化・安定させるために様々な手を打っていった。

たとえば、戦国大名たちの多くは「大義名分」を重視し、自らの権威を増大させようと苦心した。
一例として、戦国武将はしばしば朝廷や幕府に働きかけて官位や役職などを得る、あるいは勝手に自称したりした。実際には戦国時代の官位・役職に、本来存在していた実質的な意味(朝廷での役割)など残っておらず、武将たちもあくまでハッタリ的な意味しか求めていなかった。

一例として、前田利家は参議・権中納言・権大納言といった官位を得てはすぐに辞めてしまった(最短で5日!)。他の大名たちもおおむね似たようなものであったという。
それでも彼らが官位・役職を求めたのは、それを持つことで他の武将よりも格が高くなり、朝廷や幕府とも関係が深くなって、ハッタリが利かせやすく、中小の国人たちを従わせやすかったからだろう。
「元は同格じゃないか!」という不満に対して、「しかし今は朝廷から○○守に任じられているので格が違う」と反論ができるわけだ。

非常にわかりやすいのが織田信長の振る舞いだ。彼は上洛するにあたって将軍の弟・足利義昭を担ぎ、実権を掌握しても彼が明確に歯向かってくるまでは攻め滅ぼそうとはせず、実際に滅ぼすことになっても命を取らずに追放で済ませた。
「主君殺し」の汚名を着て、これを理由に支配下の諸将が反乱するようなことがあったらまずいと判断したに違いない。
さらに信長は天皇・朝廷との関係構築にも熱心だった。積極的に朝廷を援助して友好関係を作り、その権威を利用して諸大名を威圧し、自分が不利になると朝廷の仲介によって相手と一時的に和睦し、その間に態勢を整えた。
革新的な政策によって戦国時代の常識を次々と破壊して天下人になったイメージが強い信長だが、実際には既存勢力を利用して「大義名分」を作るのがうまかったのである。

支配力強化に躍起になった大名たち

戦国大名たちは支配力を強めるために様々な制度改革を行った。

まずは検地(土地の広さや生産能力の調査)の実施がある。
戦国大名たちによる検地は「村側に調べさせて結果を提出させる」というものだ。
後年の豊臣秀吉による太閤検地にあったような統一された度量衡(計測の単位)もなければ、大名側が役人を派遣して直接調査をするようなかたちでもなく、調査精度はそこまで精密なものではなかった。
しかし、その結果に基づくことで、大名は村ごとの生産力を把握し、年貢・軍役を決め、また家臣に所領として与えることができた。

「どの村にどれだけの生産力があり、どれだけの価値があるのか」が正確にわからないと適切に年貢を徴収することができないし、所領として部下に与えるにあたっても色々と問題が起きてくる。
「敵を知り、己を知れば百戦百勝危うからず」とは孫子の言葉だが、まず自分の足元である土地の生産力を把握することは、戦国大名たちにとってある意味で一番大事なことだったわけだ。

そして、分国法(戦国大名たちが室町幕府のものとは別に定めた法律。守護大名や国人たちが戦国大名化する条件の一つとも)もまた、こうした支配力強化の一環として行われたものであった。
たとえば、代表的な分国法の一つである今川家の「今川仮名目録」には、「守護不入」を否定する記述がある。
この守護不入というのは幕府が認めた特定の地域を守護が支配下に置いてはいけない、という原則だったのだが、「今川仮名目録」では「今はもう将軍が天下を支配する時代ではなく、あくまで自分の判断で所領を支配しているのだから、その所領内に守護の力が及ばない場所があるはずがない」としてこれを否定している。
これは幕府による支配を否定し、戦国大名として独自の勢力を築いていくという宣言に他ならない。

この他にも分国法には領民の支配や家臣団を統制するためなどの様々な法令が記載され、戦国大名の領内への支配力を強化する一助となった。

もう一つ、この時期特有の特徴というわけではないが、盛んに行われた支配力強化の手段として、婚姻・養子政策があったことは見逃せない。

①「同盟の証として妹や娘を嫁に送る(実質的な人質&スパイ)」
②「有力な家臣に妹や娘を嫁入りさせ、一族衆に取り込む」
③「有力武家に息子を養子として送りこみ、実質的な支配下にしてしまう」

など、その活用法は枚挙にいとまがない。

①のケースの例としては、甲斐の武田家・相模の北条家・駿河の今川家の関係がある。
この三家は関東から東海にかけての地域で大きな力を誇った戦国大名であり、時に争い、また時に同盟(和平)を結ぶ、という関係だった。そして、同盟ということになれば姫君が国境を渡って嫁入りし、和平を大々的にアピールしたのである。特に、三家が相互に同盟を結んだ「甲相駿三国同盟」に際しては、それぞれの嫡男に他家の娘が嫁入りし、同盟の証となった。

②、③のケースの例には、中国の覇者・毛利家を挙げたい。毛利家を小国人から中国一の勢力へと成長させた毛利元就は、自身の子供たちを勢力拡大にうまく活用している。
次男・元春を吉川家へ、三男・隆景を小早川家へ、と本来は同格であった国人のもとへ養子として送り込み、ついには相手をのっとって毛利傘下にしてしまった。また、長女の五龍局は有力国人である宍戸家に嫁入りさせ、ガッチリと勢力に組み込んだ。このような巧みな養子・婚姻政策こそが、毛利家の躍進を支えたのである。

次回「(2)織豊政権期のパラダイム転換」につづきます。

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