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3.戦国大名から外様大名へ

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武家諸法度――大名続制の根幹

織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人が天下を統一し、その過程で武士や大名のあり方が大きく変わっていった戦国時代末期。
これに続いたのが、秀吉の死後、天下を取った徳川家康であった。
ここからは「家康の築いた江戸幕府は、どんなシステムを構築して大名を統制したか」「戦国大名から近世大名へと変化した大名たちが、幕府の統制に対してどのように生き残ったか」を紹介していく。
それはまた、江戸時代における大名たちの立場を明確に表すものでもあるのだ。

江戸幕府の大名統制において根幹となったのが、「武家諸法度」――すなわち、武家の法律である。これは2代将軍・徳川秀忠によって定められた13条のものが最初で、代々の将軍によって改訂されてきたが、8代将軍・徳川吉宗以降は改訂されず、幕末に至った。
武家諸法度は「武士・大名はどのように振る舞うべきか」を定めたものであり、武士の心構えから、具体的な制約・行動規則までその内容は多岐にわたる。
たとえば最も有名な第1条の「武芸や学問をたしなむこと」。通説では学問の重要性を説いたとされるが、むしろ武を強調し、武士が軍事階級であることを忘れないようにという意味があったとの説が有力である。また「倹約を心がけること」「藩政を清廉に保ち、法を違えず、国を衰退させないこと」といった条項は「武士はかくあるべし」との心構えを説いている。

その一方で、参勤交代や、衣服や輿の種類を武家の格ごとに定めたり、あるいは「何らかの事件が起きた場合に独自の判断で行動したりしないこと」「徒党を組んで何かたくらんだりしないこと」と、謀反につながりそうな行動を規制したりと、大名を統制する具体的な施策も規定している。
これによって江戸幕府は諸大名の動きを抑え、二百数十年にわたる安定を得た。裏返せば、大名たちが生き残るには、この武家諸法度に従っていくしかなかった、ともいえる。

大名が最も恐れた改易と減封

生き残りを望んだ大名が最も恐れたもの――それが改易(お取り潰し)であり、減封(領地の削減)であった。
特に江戸時代初期には、豊臣家と関係のある外様大名や、後継者騒動を起こした大名、家臣団を上手く統制できなかった大名、何らかの失態を犯した大名などが次々と改易されていった。
関ヶ原の戦いに西軍として参加した土佐の長宗我部家は、時の当主・盛親の兄で徳川家と親しかった親忠が戦後に謀殺されたことから家康の怒りを買い、改易させられている。
謀殺の原因は、かつて兄を差し置いて家督を継承した盛親から、徳川家と親しい親忠に家督が移るのではないかと考えた盛親側近の先走りであったという。

関ヶ原の戦いで家康に与して先鋒まで務めた福島正則には家康も配慮したと見え、安芸・備後の二ヶ国を与えながらも「これでも納得しないかもしれない」と考えていたほどだ。
しかし、そんな福島家も、洪水に見舞われた広島城を修理したことが「武家諸法度違反」と難癖をつけられ、改易させられてしまう。
福島正則と並んで豊臣系大名の筆頭に挙げられ、やはり関ヶ原の戦いでは東軍についた加藤清正の熊本藩・加藤家もまた、改易となっている。
彼の死後、後を継いだ三男の忠広が「藩政に問題があった」「江戸で生まれた子供を幕府へ届け出ずに国元へ帰した(武家諸法度違反)」「偽の謀反書が出回った際にすぐさま幕府へ通報しなかった」などの理由によって改易されたのである。

一方、同じく「賤ヶ岳七本槍」にも数えられた加藤嘉明の会津藩・加藤家は「叩き上げ大名の息子のボンクラ具合」が目立つ。嘉明の息子の明成は、地震で天守閣が傾いていた鶴ヶ城の大改築を行って幕府に危険視されたり、内政に失敗したりと暗愚な人物であったようだ。
挙旬、重臣の堀主水と対立して幕府まで巻き込む大騒動を起こし、主水は処刑したもののこの事件の際の言質を取られる形で所領を没収されてしまった(その後、子孫は小大名として幕末まで残る)。

改易は幕府の権力を強化する最も手っ取り早い方法であったが、このような強権発動は大量の浪人を生み出すことにもなった。
大名家が潰れたら、そこに抱えられていた武士たちが浪人になるのは当然のこと。戦乱の時代なら新たな雇い先を探すのも難しくなかったろうが、世は泰平の江戸時代だ。武士、すなわち戦闘要員を今から増やそうという家は少ない。彼らは武士として行きていく道を失ってしまったわけだ。戦闘のプロがそんな状況になれば治安も悪化するし、幕府に不満を持つ勢力が結集して事件を起こす可能性も高まった。
それが具現化したものこそ、1651(慶安4)年、軍学者・由井正雪に率いられた浪人たちが幕閣批判をかかげて幕府転覆をもくろんだ「由井正雪の乱」であった、といっていいだろう。

これが一つの転機となって、幕府がむやみに大名を改易・減封することはなくなった。
由井正雪の乱と同じ年に、末期養子――跡継ぎのいない大名が、危篤時に緊急の養子を取り、相続人とすること――が解禁されたことも、大名に大きく味方した。
末期養子は江戸時代初期においては武士の振る舞いとしてよろしくないものと見られ、また大名勢力を減少させようとする幕府の意向もあって禁止されていたのだが、この時に「養父が17歳以上50歳未満であるなら」という条件付きで許可されることになった(のちに年齢上限は撤廃)。
これによって「大名が跡継ぎを用意できないまま急死してしまったので御家断絶」というケースが減り、多くの家が改易を免れることとなった。

大名を監視する国目付と巡見使

改易が頻発された江戸時代初期を除き、幕府はよほどの事件がない限り諸大名にかなり高度な自治を認めたが、それは大名たちを野放しにする、という意味ではなかった。
何か大きな事件が起きたら、もしくは起きる前にそれを察知し、処罰を加えるための監視・監察制度もまたしっかり整えられていたのだ。

幕府の役職として、大名たちの監察を任せられたのは「大目付(総目付)」であった。
大名たちの行動を監視し、また幕政全体にも目を光らせていた。
当初は柳生宗矩などの外様大名が務めていたこの役職は、江戸中期になると旗本が就くようになり、やがて職務の内容も諸藩への法令伝達や江戸城内での序列・作法の取り仕切りなど、儀礼的なものになる。そのため、大名たちの監視者として機能していた時期は短い。

それでは、実際に諸大名を監視していたのは誰だったのか。臨時の役職として地方へ派遣された役人がいたようだ。
一つは「国目付」である。これは3代将軍・家光の時代に制度が整えられた旗本の役職で、2名1組になって監視対象の大名のもとへ赴き、その城下で数ヶ月(あるいは交代で十数年―)滞在し、藩政が正常か、民情はどうか、と厳しく監視した。
たとえば、先述した会津藩・加藤家の所領没収は、藩内部の紛争を国目付たちが調査した結果だったようだ。また、後述する出羽国山形藩の最上家で幼い当主。義俊が家中を抑えられず、内紛の末に領地没収となった際にも、幕府より国目付が派遣され、裁定が下されている。

もう一つが「巡見使」である。こちらは一ヶ所に滞在するのではなく、諸大名の所領を渡り歩いてその事情を調べることを主な役目としていたようだ。大名や家臣団には接触せず、村役人などに直接会って実情を調べていた。
当初は一人の将軍の代に数度派遣されたが、5代将軍・徳川綱吉の時代以降は将軍が代替わりしてからの一年以内に派遣されることになった。
たとえば、毛利輝元は息子に対して「国々に目付がいるので、大名たちは夜も昼もそれらに気を使っている」といった手紙を残している。

大名たちは巡見使対策として村役人に「こういう質問が来たらこう返せ、書いてない質問には『存じません』と言え」と対応間答集をつくって配った。ただ、ある村で巡見使が「あそこで放牧している馬は冬の間はどうするのか」と聞いたら、村役人は「存じません」と言った――馬のことは対応問答集に書いていなかったからだ――なんて笑い話もある。そのくらい、大名たちは幕府の目を恐れていたのである。

大名の格付け①家格

もちろん、法をつくり、目付に監視させるだけでは大名を統制することはできない。幕府は様々な制度やルールを制定し、それによって大名たちの行動を縛り、また浪費せざるを得ない状況をつくった。
その代表的な存在であったのが、家の「格」であった。
現代人の感覚からすれば「家の格」などというものは大したことがないようにも思えるが、武士たちにとっては日常的な存在であり、「格」は切実な問題でもあった。

最も基本的な格としては直臣と陪臣の区別がある。
直臣というのは「徳川家に直接仕えている家臣」のことで、1万石以上なら「大名」、それ以下なら「旗本」あるいは「御家人」と呼ばれた。旗本と御家人の差異は主に「御目見得」――すなわち、将軍と直接会うことが許されているか否かにあった。
これに対し、諸大名の家臣は「陪臣」であり、石高が高くても旗本・御家人より格の低いものとみなされた。いわば「親会社の社員と子会社の社員」ともいうべき関係にあったわけだ。

また、江戸城における「詰所」は、大名たちの「格」が最もはっきり現れた場所だった。これは式日・祝日に大名たちが江戸城に登って拝謁する際の控室のことである。幕府はどの大名がどの詰所に入るかを家の格などによって細かく決めており、しかも同じ詰所の中でも位置によって序列を定めていた。

具体的な「詰所」の位置付けは以下のとおり。

  • 大廊下(御三家の詰所だが、場合によっては外様の前田家・島津家・蜂須賀家も)
  • 溜の間(徳川一族や譜代の名門など)
  • 大広間(御三家の庶流や、伊達・島津・毛利などの外様の大大名)
  • 帝鑑の間(基本的には譜代大名だが、時には外様も)
  • 柳の間(外様で5万石程度の小大名が主)
  • 雁の間(譜代の大名たち)
  • 菊の間広縁(譜代の小大名、時には外様も)
  • 無席(詰所のない大名たち)

大名たちにとってはこの控室の場所の違いが明確に「身分の差」と映ったことはいうまでもない。

また幕府が仲介して諸大名が獲得した官位は、幕府の典礼・儀式に参加する際の服装や乗物の種類に密接に関わっていたため、「格」の違いが明確に出た。
所領の大小も、もちろん大きく影響した。諸大名はそれぞれ、一国丸々(あるいはそれ以上)を所領とする「国持ち(国主)」および格式でそれに準じる「国持ち並」、所領内に城を持つ「城持ち(城主)」および格式でそれに準じる「城持ち並」、そして城のない「無城」に分類された。

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大名の格付け②徳川将軍家との関係

徳川将軍家との関係性もまた、格付けにとって大きな要素になった。すなわち、「親藩」「譜代」「外様」の分類である。

これらの分類は一般に考えられているよりもかなり複雑で、しかも時に譜代から外様へ、外様から譜代へ、と移ることさえあった。
しかし、とりあえずは親藩=徳川一族、譜代=関ヶ原の戦い以前からの徳川家臣、外様=関ヶ原の戦い以後に徳川家に臣従、と思っておけば大きく間違えることはない。ちなみに、譜代というのは「代々仕えてきたもの」、外様というのは「内側に参加しないもの(=外)」の意味なので、幕府の重職に就いて内へと入った外様大名は譜代大名となるのである。

譜代・外様の分類における特殊な例をいくつか紹介しよう。
織田信長・豊臣秀吉のもとで活躍した仙石秀久を祖とする仙石家(信州上田藩→但馬出石藩)は、本来外様大名として扱われるべき経歴でありながら徳川家との親密さからか譜代大名として扱われ、しかし1669(寛文9)年には外様に移されている。
では、そのような本来外様であるはずの譜代大名は、のちにすべて正されたのかといえばそうでもなく、出羽国の国人の出である戸沢家(出羽新庄藩)は江戸時代の終わりまで譜代として扱われている。
どのような意図でこれらの例外が生まれたのかははっきりしないが、一般にイメージされるほどには譜代と外様間に大きな断絶があるわけではない、ということはわかっていただけるのではないだろうか。
また、5代将軍・徳川綱吉は平戸藩の松浦鎮信や筑前秋月藩の黒田長重といった外様大名を幕府の要職に就かせるため、譜代扱いに引き上げたが、一時的なものにとどまった。

さらに別の例を見ると、大坂の陣で活躍した真田幸村(信繁)の兄・信之を初代とする真田家(松代藩)は徳川家との縁の深さからか譜代として扱われ、養子に入った幸貫(松平定信の子)などは老中も務めている。
また、豊臣恩顧の大名として関ヶ原の戦いでは西軍につきながら東軍に寝返った中のひとりである脇坂安治(伊予大洲藩→信濃飯田藩)などは、譜代の堀田家より養子を迎えてからは譜代となり、老中も何人か輩出した。

親藩譜代外様という関係性が必ずしも固定のものではなく、その中でも将軍との親密さで動きがあった。そこに大名コントロールの妙があったのだ。

大名の格付け③官位とその他の格

朝廷から賜る官位もその大名の「格」を表す大きな要素であった。
とはいっても、江戸時代初期には武家の官位は公家のそれから完全に切り離されており、将軍を経由して与えられる完全な名誉職になっていた。
原則的にはまずどの大名でも従五位下の位と、〇〇守などの官職を与えられる。この後、家格によってはここから上の四位へと進むのだが、外様大名では近衛中将の官職を与えられるのは島津と伊達、従三位(老年になるまでは正四位下)と参議になるのは前田家のみ、と限られた。
これよりさらに上の官位である従二位・大納言や従三位・中納言となるのは御三家や御三卿といった徳川一族のみである。

これらの官位の与えられ方、進み方は家によっていくつかの先例があったが、必ずしもすべての大名家当主がその家にとっての最高位まで至れたわけではなく、先祖より低い官位で終わった大名も多かった。
また、のちには幕閣の重要人物に賄賂を贈って便宜をはかってもらうのが当たり前になったのだが、外様大名がそれまでに例のない官位に至ろうとすると、譜代大名がその官位になるのに必要な運動費の5〜6倍かかったともいう。ただ、幕末の混乱期になるとこれらの制約もある程度撤廃されたようだ。

大名たちが官位に執着を抱いた例として、興味深いのが伊達重村である。既に述べたように、島津家と伊達家は外様大名の中でも前田家に次ぐ高い官位を与えられてきた家であり、伊達家には「島津家と匹敵する家柄」という自負があったが、実際にはやや島津家の方が上、という雰囲気があった。これには重村の祖父・吉村の頃より伊達家には不満があったようで、幕府に訴えているが、その時は却下されている。
重村は「島津家より先に中将になれるように」と熱心に運動を展開し、将軍側近として権力を拡大しつつあった田沼意次など幕閣や大奥へ働きかけるとともに、御手伝普請も積極的に行い、ついに悲願を達成することになったのである。

他に、将軍の名前の一字をもらう「偏諱」が許される家(御三家・越前松平家。国持ち大名、ただし藤堂家・佐竹家などは対象にならない)や、「松平」の称号を与えられる家(松平一族や徳川一族、徳川一族との血縁がある家、そして外様大名が特別な名誉として与えられる)などもあり、これも「格」を構成する大きな要素となった。
これらは別に徳川家が始めたことではなく、以前からあった習慣の一種であることを付記しておく。

さらに「移動に用いる乗輿の種類」とか「行列で乗る馬に虎革の覆いがかけられる」とか「表門に家紋を付けてよい」など、様々な形で大名たちには「格」の差があり、その一つ一つが名誉となったのである。
武士本来の役目である合戦のない太平の江戸時代、多くの大名が「格」を上昇させることに熱心になった。特に古来からの因縁がある家同士の格の違いは大きな問題となったようで、大名の暗殺未遂事件にまで発展してしまった例さえある。
譜代大名は「幕府での要職」という目標の方を重視したが、外様大名は江戸城の門の警備や大名火消しなどの一部の職を除いて、基本的にそれらの職から排除されていた。そのため、彼らは石高をより高く変更させ、あるいは官位を上昇させることで、自らの家の「格」を高め、たとえば江戸城内の詰所をよりよい場所に変えて名誉欲を満足させる道を選んだのである。

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