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4.江戸幕府のシステムに縛られた外様大名

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大名の肩にのしかかる参勤交代制度

「格」の問題に振り回されて多大の浪費を迫られたのは主に外様の大大名だったが、一方、大名のほぼすべてが大きな負担を背負い、頭痛の種としていたのが、大名が江戸と国元を一年交代で移動する参勤交代制度であった。

関ヶ原の合戦前後、諸大名は徳川家への臣従を示すため、江戸へ自主的に人質(証人)を送った。その後、幕府は証人制度として大名から一定の人質をとっていたのだが、大名たちによる反乱の可能性が薄くなってくると廃止された。
その一方で自発的に行われていた大名たちによる江戸への参勤や、江戸屋敷に妻子を置くなどの行為が家光の時代に制度化され、私たちの知る参勤交代制度となった。ちなみに、当初は外様大名のみの制度であったが、やがて譜代大名にも適用されるようになる。

一般に、外様大名は4月、親藩・譜代大名は6月が切り替わりの季節となっていたが、関東の諸大名は半年切り替えだったり、長崎警備などの特殊な役目がある場合や尾張・紀伊藩などの特別な地位にある藩の場合などは交代の時期が違ったり、そもそも常に江戸にいる水戸藩、あるいは老中などの要職を務めている大名などのように参勤交代自体が免除されている藩もあって、複雑な制度となっていた。
こうして完全な「根なし草」となった大名たちは、正室との間にまともな夫婦生活を送ることもできず(結果、国元に側室を置くことが容認された)、旅行などで自由に行動することもできず、様々な意味で強い束縛を受けることになったのだ。

何よりも大名たちにとって大きな問題となったのが、参勤交代にかかる費用であった。
そもそも、国元から江戸へ、あるいは江戸から国元への旅の費用が莫大なものであった。

たとえば加賀藩・前田家は2千5百人、薩摩藩・島津家は1千2百4十人もの大行列で江戸と所領の間を移動したというから、相当の出費になったであろう。もちろん、これらは大大名の場合。より規模の小さい大名はそれなりの人数でよいことになっていた。
にもかかわらず人数が少しずつ増加して財政が悪化する藩が続出し、幕府がこれをたびたび戒めている。大名たちの見栄が見え隠れするが、それで首を絞めているのだから世話はない。

金がかかって仕方がない江戸屋敷

江戸に屋敷を構えることも大名にとって大きな負担になった。
江戸の大名屋敷(藩邸)はしばしば複数置かれ、それぞれ上屋敷(大名と家族の住居など)、中屋敷(先代藩主や成人した跡継ぎの住居など)、下屋敷(郊外に置かれた別荘)などと呼ばれた。場合によってはさらに下屋敷が複数にわたるケースもあった。
これらの複数の屋敷を維持し、たびたび起こった「江戸の華」こと江戸の大火で焼けてしまった場合には再建も必要となり、莫大な出費となった。
特に上屋敷や中屋敷には住宅や長屋なども置かれ、家臣はそこに住んで主人の生活を支え、また幕府その他との折衝・交際などを行った。現代でいうなら、地方を拠点とした企業の東京支社のようなものである。

大名不在の間、大名屋敷を統括するのは「留守居」という家老クラスの役職の家臣の仕事だった。しかし、後年になるとその役目のうち幕府や他藩との交渉は聞番・耳番などと呼ばれた専門の担当者に委譲され、やがて彼らこそが留守居と呼ばれるようになった。
留守居たちは他藩の同じ役職の者たちとたびたび連絡を取って10人ぐらいずつの組合をつくっていた。幕府側もこの組合を認識していたようで、何かの連絡をする際は組合のうち2人ほどが呼び出されて伝えられ、組合の中で情報が回された。この組合はしばしば会合を行って情報を交換しており、それ自体は有用であったろうが、一方で徒党を組んで遊興にふける側面も強く、藩財政に悪影響を与えるほどに遊びつくした、という。
しかも、それを主人の大名がとがめて留守居が本国に戻された際などは、仲間の留守居たちが結託して後釜の留守居の邪魔をしたとか、老中が問題視した場合にその老中の家がのちになって留守居を置くようになった時には様々な形で妨害した(老中を務めている間、大名はずっと江戸にいるので留守居の必要がない)、とかいうのだからすさまじい。

江戸での滞在費および大名屋敷の維持費、そして国元との往復の旅費は確実に大名の財政状況を悪化させ、結果として幕府による大名統制手段として大いに機能することになった。
たとえば、紀伊藩・徳川家では、ある年の総収入が約24万3千両だったのに対して、参勤交代関連(江戸滞在と旅費)の出費が約2万4千両とその1割ほどだった。しかも、うち1万3千両はたった20日間の旅費に消えたというのだからすさまじい。
また、ある年の庄内藩・酒井家では、国元でかかった支出が約5千両だったのに対し、江戸での支出は約2万両だったという。実に6倍である。
ここからもわかるように、参勤交代と江戸での生活にはとてつもない金額が必要だった。

「移動中に旅費が足りなくなり、調達するためにしばらくその場に逗留するしかなくなった大名」あるいは「節約のために大名行列をつくらず、(普通は籠なのに)草軽履きで国元に帰った大名」がいた一方で、「大名行列が道中で落とすお金が財政上大きな割合を占めていた藩」もあったという話が伝わっているが、実にもっともといえよう。それほどに大きな経済活動だったのである。

御手伝普請の苦難

参勤交代以外にも、幕府は様々な役目を大名たちに与えた。これは非常に名誉なこととして受け取られたが、経済的には大きな負担となった。多くの大名たちがそれに苦しんだことはいうまでもない。

本来、大名に課せられる役目として最も重いのは軍役――すなわち、一朝ことあれば石高に応じて割り当てられただけの軍勢をひきつれて出陣することであった。しかし実際には江戸時代にはほとんど合戦はない。出陣など、あっても百姓一揆の鎮圧や幕末の海防警備程度だったわけだ。
しかし、この軍役の一種として、幕府の行う普請(土木工事)・作事(建築)に労働力や資材などを負担する「御手伝普請」があった。

大名は豊臣政権の頃からこのような工事へ動員されており、江戸幕府もそれに倣った形である。
江戸城の拡張工事に始まって伏見城・駿府城・名古屋城・高田城といった徳川家のための城や、西国に対する防衛拠点としての彦根城・篠山城などの築城、さらには江戸市街地の拡張・整備などが、江戸時代初期に行われた主な御手伝普請である。

大名は石高に応じた人数を動員する義務を負わせられ、それを家臣団に分配した。家臣たちもまたそれぞれの知行高に応じて領民を人夫として動員し、現地に赴いた。
こうした工事は大名たちにとって大変な経済的負担であり、これを強いることによって幕府は反乱する力を削ごうとしたのだと考えられる。もちろん諸大名の側にも不満がたまったが、この頃にはすでに幕府の力は圧倒的であり、逆らうことはできなかった。
こうした当時の大名たちの気分を表すものとして、徳川義直(家康の子)の居城である名古屋城普請を巡るエピソードがある。
この工事を命じられた福島正則が「大御所の息子の城まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼすと、これを聞いた加藤清正が「いやなら国に帰って戦準備をしろ」と言った、という。清正にも少なからず不満はあったろうが、しかし拒否することは幕府と戦うことに他ならなかったのである。

江戸中期になると御手伝普請の性質が変わる。「ある地域の大名をまとめて動員する」という形から、「この家とこの家を動員する」という形になっていった。
内容自体も河川の堤防工事が主となり、大和川・利根川・多摩川・大井川などの工事が御手伝普請で行われた。この際、実際の工事は入札した町人によって行われ、大名は監督・警備の家臣を派遣するとともに、必要な資金を負担した。

特に有名なのが薩摩藩による宝暦の工事である。美濃・伊勢・尾張の国境付近を流れる木曾・揖斐・長良の三川によってつくられた三角州ではしばしば水害が起きて、莫大な被害を出した。
薩摩藩は1年以上をかけてこの水害対策の難工事をやり遂げたが、その間に監督を務めた旗本の強制や圧迫に耐えかねて自殺した藩士、あるいは病死した藩士は80人余りとなり、惣奉行を務めた家老まで完成後に切腹して果てた、という。
もちろん財政的なダメージも大きく、20万両以上と推定される出費となった、この時の借金が後々まで薩摩藩を苦しめることになる。

この工事があまりにも悲惨であったためか、以後の工事は幕府が行うようになった。しかし、その費用は大名に課せられたため、御手伝普請が大名にとって負担であることは変わらなかったのである。

大名の結婚にまつわる諸問題

幕府による大名統制として、ちょっとした変わり種を紹介する。それが「大名の結婚」だ。

大名はどんな家から妻を迎えたのだろうか? 基本的には同格かそれより上の大名であることがほとんどだったらしい。ただ、大大名であれば公家から妻を迎えるケースもあったようだ。
大名家同士の婚姻の仲介は旗本の先手組(江戸城の治安維持などを担当した者たち)によって行われた。各大名にはそれぞれ懇意の先手組がいて、彼らが婚姻の交渉に臨んだという。大名の婚姻はこのように何人もの人が間に入るために手続きが煩雑で、しかも多額の費用がかかり、大名の財政を著しく圧迫した。

もちろん、相手選びには大名自身の意思も働いていた。どの女性を選んだという意味ではなく、どの大名家を選ぶか、である。傾向としては、一度婚姻関係を結んだ後、繰り返しその家から妻を迎えることが多かったようだ。妻が連れてくる女中たちによって相手の状態がよくわかるから、色々都合もよかったのだろう。
また、鍋島家などは幕府に警戒されるのを避けてか「西国の大大名とは婚姻関係を結ぶべきではない」と考えていたようで、主に東国の大大名、あるいは御三家・譜代・公家などから妻を選んでいる。

また、武家諸法度には一時期を除いて「私的な婚姻」の禁止が明文化されている。
第一章で触れたように、婚姻政策によって他勢力とよしみを通じるのは、古今東西における勢力拡大の常套手段である。そのため、かつて豊臣秀吉は支配下の諸大名が私的な婚姻関係を結ぶのを禁止した。その死後に家康は秀吉の命令を無視してこれを行ったわけだ。
武家諸法度自体が、「縁を結び、徒党を組むのは、謀略の始まりである」としているわけで、幕府としてはとにかく諸大名が婚姻を通じて同盟を結成し、謀反を起こすのを警戒していた。

しかし、平和な時代が続くにつれてこの点での警戒は薄れたようだ。代わって重視されたのが身分制度の維持であった。
たとえば、6代将軍・徳川家宣の時代の武家諸法度には、私婚の禁止と同時に「最近は持参金目当てで身分違いの相手と結婚するようなことが流行っているが、やめるように」とある。これはつまり、経済的に困窮する大名たちが持参金目当てに相手を選ぶことが増えた、ということに他ならない。
これはもともと中・下級武士に見られた傾向だったが、時代が進むにつれて大名すらもそこまで困窮するようになったわけだ。先述したように、大名の婚姻には大量の出費が付きものだったことも無関係ではないだろう。
それでも、江戸時代のような封建社会において、身分秩序の崩壊はそのまま社会の崩壊につながりかねない。そのために幕府は「持参金目当ての婚姻禁止」とする法令を発したほどだ。

将軍家から妻など迎えるものでは……

このように、大名の婚姻は非常に面倒なものであったわけだが、その最たるもの(そして幕府によるコントロール手段になったもの)が徳川家から妻を迎える場合だ。

家康や秀忠は他から養女を迎えてまで諸大名と婚姻関係を結んだが、これはただ縁戚関係を成立させてよしみを通じるだけではなかった。姫と一緒に送りこまれる女中たちに逐一大名家内の情報を幕府へ流させる――スパイとしても活用したので、将軍の娘を妻に迎えた大名は、まったく気の体まることがなかったという。
養女を婚姻政策に用いる、あるいは婚姻をスパイ潜入の手段として行う、というのは実際のところ戦国時代からしばしば見られたことなのだが、これを徳川将軍家という絶対的な相手にやられた大名としてはたまったものではない。
特に江戸時代初期というのは様々な事情で改易が行われた時期である。大名としても心中には少なからず幕府への不満があったろうし、家中にも内紛の種があっておかしくない。それが妻の女中を通して幕府に知られれば大変なことになる。

こうした大名たちの苦悩は、毛利輝元がその子の秀就(妻は秀忠の養女)に与えた教訓に、よく表れている。
要約すると「妻やその女中に対しては分別を持って相対すること。少しでも彼女たちの気に食わないことがあったらすぐに将軍の耳に入り、一大事になってしまう。普段の気持ちで相対してはならず、むしろ相手が主人だと考えるように。こちらではいつもひやひやしている」といった内容で、年若い秀就がうっかり粗相をしないように、と強く戒めている。
幕府による治世が安定し始めた3代将軍・徳川家光の時代以降は、養女を取ってまで政略結婚をすることはほとんどなくなったが、それでもこのような「筒抜け」状態は変わらず、大名を大変苦しめた。

問題はまだあった。将軍家相手の婚姻は、普段以上に金がひどくかかるのである。祝儀を派手で壮大にしなくてはならないのはもちろんのこと、「御守殿」と呼ばれる住居をつくらねばならず(これは同時に、ここに入る妻の呼び名でもあった)、さらに女中や下男といった妻のお付きの者たちの切米(給料)も支払わなければならなかった。これが莫大なものであり、ただでさえ苦しい大名家の台所をさらに苦しめた。
たとえば、鍋島直正のもとに徳川家斉の娘が嫁いだ際には、大奥よりわざわざ御守殿の造営について細かく指示があり、「梯子は黒塗りにしてから羅紗で覆いなさい」と言われたので、家中のものは「どうせ覆うなら黒塗りの必要はあるまい」とひそかに言ったという。このくらい、ある種馬鹿馬鹿しいほどの華美さが要求されたのである。
もう一つ、喜劇にも似た話がある。伊達吉村の嫡男・宗村の妻は8代将軍・吉宗の養女・利根姫であった。宗村が年頃になると、吉村は「3年後には引退しようか」と考えたのだが、家臣に止められた。なぜかといえば、宗村を当主にすると利根姫が大名の妻になる。そのためには御守殿の造営など莫大な費用がかかる。ぎりぎりまで節約しても3年では8万両しか用意できないのに、その倍近い15万両が必要だというのだ。結局、吉村が引退できたのは5年後のことであった。

次回は「5.支配者としての大名たちの苦悩」につづきます。
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