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明智光秀と太原雪斎――あるいは光秀と軍師

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歴史好きには「雪斎(せっさい)」の名で知られているが、事典などには「太原崇孚(たいげんそうふ)」と記されることが多い。雪斎は号である。
今川家臣の子として生まれた雪斎は、10歳にして仏門へ入れられ、その後父の主君である今川氏親の子、芳菊丸(のちの今川義元)の教育係・補佐役としてつけられた。そのままであれば二人は生涯を僧侶として過ごしただろうが、そうはならなかった。芳菊丸の兄が死に、今川家は後継者争いに突入したからである。

この血で血を洗う内紛において芳菊丸を勝利させ、戦国大名・今川義元へ成長させた立役者のひとりが雪斎であったとされる。
以後、雪斎は今川家の政治・軍事・外交の各面において活躍し、中でもよく知られているのが武田・北条・今川の甲相駿三国同盟締結である。彼の死が今川家没落の遠因であるとみなされることもあるほど、有能な人物であったという。のちの天下人、徳川家康に教育を施した人物としても知られている。

この雪斎を通称「黒衣の軍師」とする。黒衣は僧侶が身にまとう墨染の衣からだが、軍師は何が由来だろうか。実はこの(戦国時代における)軍師というのが非常に厄介な言葉で、私たちが現代イメージするところの「主君を補佐して策を提案する参謀的存在」としての軍師がこの時代にいたかどうかはかなり怪しい。
そうはいっても雪斎、あるいは竹中半兵衛・黒田官兵衛のいわゆる「秀吉の両兵衛」のように軍師と呼ばれる人はいたではないかという向きもあろうが、これはどうも後世にイメージが膨らんだ結果という部分があるようだ。

実際、戦国時代に「軍師」と呼ばれていたのは、戦場における儀式に精通していた軍配者と呼ばれる人々、あるいは外交交渉で活躍した人々(この両者は別々ではなく、時に同一だった。とくに僧侶は両者の側面を併せ持つ)であった。ここに「秀吉の両兵衛」のような知略で活躍した逸話を持つ武将たち、そして『三国志』の諸葛孔明のような伝説の中の軍師のイメージが混ざり合い、現在私たちが持つ参謀的存在としての軍師のイメージが生まれたのではないか。

諸戦国大名・諸武将の陣営には、軍師(のような存在)がいたはずだ。それは外交で活躍する僧侶であったり、儀式担当の軍配者(呪術知識の保有者)であったり、兵法書を学んで戦術・戦略を理解し参謀的アドバイスができる武将であったろう。
もちろん、光秀のそばにもいたはずだ。彼らが軍師と呼ばれないのは、目立つような活躍がなかったり、注目されなかったりしたためで――いわば「たまたま」としか言いようがない、と考えるがいかがか。

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