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1.譜代大名の定義

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そもそも「譜代大名」とは?

徳川家が天下を掌握し、江戸幕府を開く前、日本は群雄割拠の戦国時代だった。各地にさまざまな戦国大名が勢力を築き、覇権を争っていた時代だ。それぞれの大名には家臣がおり、各地域で主従関係ができ上がっていた。
そうした中で、古くから徳川家(三河松平家宗家)に仕え、1万石以上の石高(米の生産量)を与えられた武家が「譜代大名」と呼ばれる。

譜代とはそもそも「代々その主家に仕えること。また、その臣下」(『広辞苑』第五版)という意味を持つ言葉だ。大名とは、1635年(寛永12年)に発布された『武家諸法度』(武士や大名の守るべき法律)において「(徳川家)一門の歴々、1万石以上の石高を持つ国主および城主」と定められた。
江戸時代の大名にとって、主家は徳川家しかない。ゆえに、代々徳川家に仕えてきた大名が譜代大名となったのだ。これに該当しない大名は、対義語を用いて「外様大名」と呼ばれる。
原則として、織田家や豊臣家に仕え、徳川家と同列の立場にあった大名は譜代大名とはされない。また、関ヶ原の戦いが一つの目安となっており、それ以前から徳川家に仕えていた者を譜代、そうでない者を外様としている。

ただし、これはあくまで原則であり、江戸幕府が開かれた後から仕え始めた譜代大名もいれば、徳川家とのつながりによって外様から譜代に変わった場合もあった。淀藩・稲葉家は外様大名である豊後の稲葉家の庶流にあたる家だが、稲葉正成の妻が3代将軍・家光の乳母を務めた春日局であったことから譜代大名となり、以後代々の当主が幕府で要職を占めている。
また譜代大名と外様大名の間での婚姻は自由であり、意外と両者はまったく隔たれた存在というわけでもなかったようだ。

譜代大名はもともと徳川家の子飼いの部下だった者たち――「十八松平(十四松平)」と呼ばれた家康の同族たちもここに含まれる――の子孫であり、外様大名と比較して「徳川家臣」としての性格が強い。老中や若年寄など、幕政の中心を担う役職には基本的に譜代大名しか就けなかったのは、この流れからして当然といっていいだろう。
彼らは転封によって領地が変更されることがよくあった。幕府にとって要所となる土地とその周辺は、できるだけ譜代大名で固めておきたい。そこに外様大名がいる場合はなおさらで、ときには言いがかりに近い理由で外様大名を改易し、譜代大名を配置することもあった。

表向きの石高は小規模なものが多い。実際、加賀藩の前田家(102万石)や薩摩藩の島津家(77万石)など、譜代大名よりはるかに高い外様大名が各地にいたが、徳川家は自分たちの手足となって働いてくれる譜代大名を政治の中心におき、幕政を安定させたのである。外様大名はいくら石高が高く、力が強かろうと――いやむしろ力が強いからこそ、幕閣への道は閉ざされていた。

江戸時代は高度な地方自治が成立していた時代であり、中央政権である江戸幕府が地方自治体である諸藩に過度の干渉をすることは少なかったが、一方で諸藩が中央政権の専権事項である諸外国との外交(江戸時代は鎖国体制とはいっても、オランダ、中国、朝鮮。そしてロシアとの間には明確に交流・外交関係があった)などに口を出す権利もまたなかったのである。
この点において、譜代大名と外様大名の間には歴然とした格差があったわけだ(ごく一部に、外様大名が幕閣に登用された例もある)。

ちなみに、徳川家の一門は基本的には譜代大名として数えない。家康の子供が創設した尾張・紀伊・水戸の御三家、8代将軍・吉宗の子孫が創設した田安・一橋・清水の御三卿に代表される徳川家の親族は「親藩」、または「家門」と呼ばれる。
この中には「松平」を名乗る家も含み、2代将軍秀忠の兄・結城秀康を祖とする越前松平家、3代将軍家光の弟・保科正之を祖とする会津松平家、6代将軍徳川家宣の弟で・松平清武を祖とする越智松平家などが代表例だ。逆にいえば、家康とその父系の末裔から分かれたものだけが親藩で、松平一族であっても「十八松平(十四松平)」のような家康以前から分かれた一族や、家康の娘・亀姫を迎えて松平を名乗った奥平松平家などは譜代大名である。

また、石高が1万石未満の者も、いくら徳川家に長く仕えていようと譜代大名とはされない。彼らは「直参」とされ、将軍に直接謁見することが許される御目見以上の家格の者が「旗本」、それに達しない者が「御家人」として区別されていた。つまり、譜代大名とは広大な所領を背負うに足る力を持ち、徳川家から信任されている、非常に名誉ある立場だったのだ。

江戸城の殿席

現代の私たちは単純に「譜代」、そして「親藩」「外様」と大名を分類してしまうが、実はこれらの大雑把な枠決めの中に、さらに小さいグループ分けがあった。
これを一番明確に表現しているのが、「殿席」である。これは諸大名が儀式などで江戸城に登城するとき、それぞれ用意される控えの席のことだ。
殿席の場所は、大名の家格によって明確な差がつけられていた。以下の通りだが、朝廷から授けられる官位の上下によっても、殿席には差がつけられていたとされる。

大廊下(上之部屋)

松の廊下(大広間から将軍との対面所へつながる廊下。元禄赤穂事件において浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったことで有名)に沿って設けられた、最も格の高い殿席。おもに御三家が使用していた。

大廊下(下之部屋)

御三家以外で、特別な待遇を与えられた大名の殿席。松平の名乗りを許された加賀藩の前田家や、将軍家と姻戚関係を持った薩摩藩の島津家などが特別に使用した。

溜間

会津松平家や高松松平家などの家格の高い家門や、彦根藩の井伊家など譜代大名の中でも特に重用された有力大名が使用した。
また、平時には幕閣の最高位に当たる老中の経験者がここに詰めていた。こうした人々は「溜間詰」「溜詰」などと呼ばれ、幕府の政治顧間のような役目を担っていた。

大広間

家門と有力な外様大名のための殿席。外様大名の中でも国持(一国以上の領地を治める者。国主とも)か、それに準ずる従四位下以上の官位を持つ者が、この部屋の使用を許された。官位が低くても、後に昇進すれば大広間を使用することができた。
二之間と三之間に分かれており、石高・家格の高い者を基準に御目見順に並ぶことが慣例となっていた。

帝鑑間

古参の譜代大名のための殿席。古来御譜代(古くから徳川家の譜代だった家)の席ともされる。部屋の奥に、中国の理想の君主像が描かれていたため、帝(君主)鑑(手本)の間と呼ばれた。
名高い徳川四天王(井伊、榊原、本多、酒井)の家のうち、別格というべき溜間を使用する井伊家を除く三家もここを控えの間としていたことからも、この帝鑑間の格の高さがよくわかるのではないだろうか。

柳間

外様大名のための殿席。従五位下以下の官位など、他の間に入れない外様大名が使用した。

雁間

譜代大名のための殿席。城主(居城を持つが、国持でも親藩でもない)格の譜代大名が使用した。帝鑑間と区別して、御取立之御譜代(後から徳川家に取り立てられて譜代となった家)の席ともされる。
雁間も溜間のように、平時にも譜代大名が詰めていた。こうした大名は「詰衆」と呼ばれ、幕政の中心を担う存在だった。老中などの要職は雁間を使用する譜代大名から多く輩出されている。

菊間縁頬

城主に満たない家格の譜代大名のための殿席。ここも御取立之御譜代の席とされる。城を持たない陣屋大名と呼ばれる譜代大名が使用した。
菊間縁頬にも平時に譜代大名が詰め、「詰衆並」と呼ばれていた。彼らは詰衆よりも下位の幕閣として、幕政を担っていた。

その部屋の使用を許された者以外は、入室が禁じられた。逆に言えば、家格が類似していれば同じ部屋で何度も顔を合わせるということで、そこから結びつきが生まれるようなこともあったようだ。

次回「(2)譜代家臣団の成立」につづきます。

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