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2.譜代家臣団の成立

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徳川家の成り立ち

譜代大名について知るには、彼らの主君である徳川家について知らなければいけない。

徳川家の前身は、三河国賀茂郡松平郷の豪族・松平家である。16世紀前半、家康の祖父である松平清康の代に、松平家は大きく発展した。岡崎城を本拠地とし、三河一帯を手中に収めたのはこの頃である。
この清康は駿府を中心に勢力を展開する戦国大名・今川家に従い、尾張の織田家と対立する立場にあった。しかし、1535年(天文4年)、織田信秀(信長の父)を討つために尾張森山(守山)へと出兵した際、清康は家臣によって殺されてしまう。これが「森山(守山)崩れ」と呼ばれるできごとだ。

清康を失った松平家は、急速に衰退してしまう。家督を継いだ広忠は、織田家の脅威から家を守るため、今川家に従う道を選んだ。その人質として差し出されたのが子の竹千代、のちの徳川家康だった。
家康はその後、19歳になるまで今川家、織田家の人質として辛酸をなめることになる。その間に元服し、元康と名を改めて松平家の家督も継いだ。
1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に敗れると、家康は今川家のもとを離れ、岡崎城に戻って自立する。さらに信長と同盟関係を築き、この頃から家康と名乗るようになった。

1566年(永禄9年)、家康は朝廷から勅許(許可)を受け、姓を徳川とした。これには源氏の末裔が三河に流れ着いて松平家の先祖になったというエピソードがバックボーンになっているが、真偽は怪しく、家康の外交戦略の一環であるとされる。その後、今川家の領地だった遠江国を平定し、居城を浜松に移した。それからも信長との同盟を堅持し、信長の天下統一への道を支え続けた。

1582年(天正10年)、「本能寺の変」が起き、信長は明智光秀によって討たれてしまう。堺に滞在していた家康は岡崎に飛んで帰り、態勢を整えた。一方、光秀は「山崎の戦い」で羽柴(のちの豊臣)秀吉に倒される。家康と秀吉は天下統一に最も近い実力者同士として、互いを牽制し合いつつ、着々と勢力を拡大していった。
やがて、家康は信長の子である信雄を支援して秀吉と対立することになる――「小牧・長久手の戦い」だ。しかし、信雄が秀吉と単独講和し、家康は戦う理由を失ってしまう。秀吉と正面から対決しても勝てないと判断した家康は、秀吉に従う道を選んだ。

1586年(天正14年)、家康は居城を駿府に移す。この頃には三河と遠江に加えて駿河、甲斐、信濃をも支配下に置いていた。その後、秀吉による関東北条家の攻略(小田原攻め)にも加わった。
北条家が滅亡して関東が平定されると、家康は秀吉に領地替え(転封)を命じられる。先祖代々の所領である三河一帯から駿河・遠江に甲斐・信濃を召し上げられ、石高こそ豊臣政権の大名の中で最大だったものの、中央から見れば僻地だった関東八州にまたがる領地を与えられた。こうして徳川家は関東を拠点とし、江戸城を居城とすることになったのである。

家康は前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景らとともに豊臣政権の中でも特に有力な大名である五大老の1人として豊臣家に仕えた。五大老の中では筆頭格で、秀吉の死後は子の秀頼を補佐した。やがで、家康は豊臣政権の分裂を画策し、豊臣政権の行政をつかさどる五奉行の1人、石田三成と深刻な対立を招くことになる。
1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」が起こり、家康率いる東軍は三成の西軍を打倒、天下の覇権を掌握した。1603年(慶長8年)には征夷大将軍に任じられ、晴れて江戸幕府を開くに至る。

家康はその2年後に、将軍職を子の秀忠にゆずっている。自身は大御所として控え、徳川家による支配体制を固めるために尽力した。
1614年(慶長19年)には「大坂冬の陣」、翌年には「大坂夏の陣」があり、豊臣家が滅亡する。これにより、江戸幕府の支配体制は盤石なものとなった。以降、将軍職は徳川家の子孫によって世襲され、強固な支配体制が維持されていく。徳川家による統治は、実に265年の間にも及んだ。

時期による譜代大名の区分

家康が天下統一を果たしたことで、すべての大名は徳川家に臣従することとなった。
その中で、古くから松平家、および徳川家に仕えてきた大名たちが譜代大名とされたわけだが、一口に松平(徳川)と言っても歴史が長い。結果、譜代大名は徳川家に仕えた時期によって区別する考え方が生まれた。
時代劇などでしばしば「三河以来の~」などと自らの血筋を誇る武士のイメージは、この点から来ているものと思われるが、一方でこの種の区別はあまり厳密なものではなかった、という見方もある。
以下、各譜代の概要と、そこに数えられる緒家について紹介したい。このリストは豊田武『日本史小百科〈家系〉』(東京堂出版)に基づくものだ。

松平郷譜代(岩津譜代)/安祥(安城)譜代

松平家が三河国賀茂郡松平郷にあった頃から仕えていた譜代大名。譜代大名の中でも最も古い家臣団であり、徳川家からの信頼も厚かった。
松平家は初代・松平親氏が起こし、3代目の信光が額田郡岩津に拠点を置いた。さらに7代目の清康が居城を安祥に築く。この間に服属した者たちが松平郷譜代(岩津譜代)、または安祥(安城)譜代とされている。
徳川家との結びつきは非常に強く、親氏の庶子・広親を始祖とする酒井家をはじめ、本多家大久保家鳥居家内藤家、平岩家、石川家青山家阿部家、成瀬家、渡辺家植村家などがこれに含まれる。

山中譜代

松平家が居城を安祥から岡崎に移すまでの間に服属した譜代大名。
1524年(大永4年)、清康は一族の松平信貞による反乱を抑えるため、居城を安祥から岡崎に移している。
このとき服属した信貞の家臣たちも、山中譜代に含まれている。

岡崎譜代

清康が居城を岡崎に移してから、9代目の家康が遠江を平定し、浜松に居城を移すまでの間に服属した譜代大名。
清康が東三河を平定した際に服属した牧野家戸田家奥平家、菅沼家、設楽家、西郷家、鵜殿家はここに含まれる。
その他に榊原家、松井家、高力家、伊奈家、天野家、安藤家永井家、久世家、米津家大岡家の名前が挙げられる。

駿河譜代

浜松を居城としてから、「関ヶ原の戦い」に至るまでの間に服属した譜代大名。岡崎譜代までが「三河譜代」として優位に立っていたため、やや格下と見られる向きもある。
徳川家が勢力を拡大していく過程で服属したため、他の戦国大名の家臣だった者が多い。今川家に仕えていた井伊家や、武田家に仕えていた小笠原家諏訪家保科家などが、その例となる。
他に板倉家太田家西尾家土屋家、森川家、稲葉家藤堂家、高木家、堀田家岡部家朽木家土岐家稲垣家丹羽家三浦家遠山家、加々爪家、内田家、小堀家、西郷家、奥田家、脇坂家京極家、毛利家、山口家柳生家堀家、蜂須賀家、増山家などが含まれる。

これらとは別に松平家の一門がある。実は譜代大名として数えられる松平一族も少なからず存在したのだ。

松平一門

徳川を名乗ることができたのは、基本的に御三家と御三卿だけで、それ以外の一門――および元々松平を名乗っていた十八松平(十四松平)――はすべて松平姓を使っていた。また、徳川直系の保科家や越智家、紀伊徳川の一族になった鷹司家、松井家にも松平の姓が与えられている。
さらに家臣でも目覚ましい功績のあった柳沢家や、有力な外様大名の前田家島津家伊達家黒田家浅野家毛利家鍋島家池田家蜂須賀家山内家などにも松平を名乗ることが許されている。これらは毛利家を除いて、明治維新まで松平姓を使い、本来の姓を使わなかったという。

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