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3.江戸幕府における譜代大名の役割

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譜代大名の配置

江戸幕府の統治において譜代大名に求められた大きな役割のひとつは、「軍事・流通における要所を押さえること」だった。

「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家は、敗れた大名から632万石余にもおよぶという莫大な所領を没収する。これをもとに、家康は大名所領の大規模な整理を行なった。
東海地域にはもともと豊臣家の家臣で、関ヶ原の戦いでは徳川家に味方した大名が多くいたが、彼らは石高を加増する代わりに西国へと移された。そして、空いた東海地域には譜代大名が取り立てられ、尾張とその周辺を固めている。たとえば、岡崎藩は秀吉に仕えていた武将・田中吉政から、徳川家の重臣である本多家につながる本多康重へと交代した。大垣藩は関ヶ原の戦いで西軍に加わった伊藤家が取り潰され、岩津譜代の石川家が治めた。

また、近江佐和山に井伊直政、伊勢桑名に本多忠勝という、譜代大名の中でも特に重鎮とされる2人が配置された。
佐和山は関ヶ原の戦いにおいて西軍の旗印だった石田三成の本拠地である。豊臣家はまだ健在で、そちらへの備えが必要だった。豊臣政権の重要人物だった三成の居城を押さえ、東軍の勝利を知らしめる必要があったのだ。
一方の桑名は東濃地方有数の商業都市で、木曾木材の集散地と東海道の宿場町を兼ね、堺や博多と並ぶほど発展していた。徳川家が全国支配の基礎を固めるためには必要不可欠な都市だった。

こうして徳川家は旧来の所領であった東海地域を取り戻し、御三家のひとつである尾張徳川家による支配体制を築く。関東から東海地域までを固めたことで、西へ進出する地盤もできた。ただ、大坂にはまだ豊臣家が残っており、紀伊にも豊臣方の外様大名の浅野家がいて、この時点では徳川家も手を出すことができていない。
さらに北方への対策として、磐城平に鳥居忠政、館林に榊原康政、宇都宮に奥平家昌らを置いた。これらもまた家康の信頼厚い譜代大名で、関東の北の守りを固めることが目的だった。
東北や北陸といった関東の北には前田家伊達家といった外様大名の中でも際立って有力な家がいた。江戸幕府の設立当初、まだ諸大名への支配が確立していなかった頃には、こうした外様大名の存在は幕府にとって脅威だったのだ。

その後、「大坂の陣」によって豊臣家が滅亡すると、幕府は畿内を譜代大名で一気に固める。1617年(元和3年)には、姫路に42万石の勢力を持っていた池田家を鳥取へと移し、本多忠政を配置している。さらに、周辺の明石や龍野も本多家と姻戚関係にある譜代大名で固めた。
実際、姫路は西国の押さえとして最重要視されていた。代替わりなどで藩主が幼少になってしまった場合、その家を転封して本多家、奥平家、結城家、榊原家、酒井家といった有力かつ武断派の譜代大名を配置したほどである。

1619年(元和5年)、幕府は大坂を直轄地とする。同年、広島藩の福島正則が無断で城の石垣を修理したとして領地没収となり、浅野家がこれに代わることとなった。そして、空いた紀伊に徳川頼宣が送られ、ここに御三家のひとつ、紀伊徳川家が誕生する。
四国・九州も当初は外様大名に占められていたが、伊予・今治に久松松平家を置くなど、諸大名の監視をするために幕府の軍事拠点が築かれた。

その他、外様大名が改易や転封を受けたり、無嗣断絶に至ったりした場合は、ほとんどが譜代大名に代わられることになり、幕府の支配体制を強化することになったのである。

譜代大名が幕政を運営したわけ

前項で紹介したような譜代大名の軍事的役割は泰平の世が長く続く中で薄れていく。その代わり、もうひとつの役目の意味合いが重くなっていく。それは幕閣(幕府の最高行政機関)の要職につき、中央政権を動かすことだ。

原則として、幕府の役職に就く大名は譜代大名に限られる。外様大名はもちろん、親藩や家門が就くこともなかった。
外様大名については、徳川家への忠誠心が譜代大名ほど信頼されていなかったという事情がある。では、なぜ家門も幕閣に参加することがなかったのか。

ひとつは、幕府の要職を徳川家が独占することで親族内の対立が起こり、将軍の独裁体制を揺るがすのを防ぐためと考えられる。
将軍に比肩するような権力を徳川一門の誰かが握っては、将軍の座を狙う野心が芽生えるかもしれない。本人にその気がなくても、周囲がその人物を担ぎ上げて将軍を脅かすかもしれない。事実、室町幕府では鎌倉公方などの要職を占めた親族との内紛が起こり、治世を混乱させている。

もうひとつは、幕閣が「徳川家の家臣」という位置づけになるからだ。
幕閣は将軍の下でその命に従い、政務をこなさなければならない。最高位の老中であろうと、徳川家の家臣であるという立場は変わらない。このため、徳川家の一門である家門は、その立場を配慮して幕閣には入らなかったのだろう、と考えられるわけだ。
ちなみに、この理由は一部の譜代大名にも適用されている。実際、譜代大名の中でも宿老とされる井伊家榊原家本多家酒井家などは、ほとんど老中を輩出していない。これらの家は家康の代から徳川家の重鎮として働き、数々の功績を立ててきた。そのため、礼を尽くす意味でも、将軍が自由に動かすことのできる老中に任命することは、できるだけ避けられていたのだ。
ただし、老中を上回る格を持つ大老については、井伊家が何度も輩出している。大老は幕閣の中でも、それこそ「別格」だったということだ。

こうした習わしは、次のように言い換えることができる。そもそも幕府とは、中央政府としての性格を持つとはいえ、本来的には徳川家の家政の延長線上にある機構である。御三家などの家門もさらに言えば外様大名も幕政に「参加できない」のではなく、他家(徳川家)の家政を担わなければならない「義務」などなかったのだ。

なお、将軍が改革を志し、新たな人材を求めれば、外様大名が幕政にかかわることもある。
たとえば、5代将軍・綱吉の代には外様大名が詰衆として幕閣に取り立てられる例もあった。ただ、彼らは雁間詰として外様大名から譜代大名へと立場を変えられており、「幕閣に参加するのは譜代大名のみ」とする原則は守られた。
それでも、内に向かっては幕藩体制の硬直化、外に向かっては西洋列強諸国の接触という内憂外患の幕末混乱期になると、さすがに原則ばかりを守るわけにはいかなくなった。幕政が大きく改革され、ついに外様大名の中から老中が選任されている。開国を迎えて混乱する幕府は、家格よりも実力を重視したのかもしれない。
とはいえ、幕末の短くも激しい混乱が大政奉還(幕府が政治権限を本来の持ち主である朝廷に返還すること)と幕府の消滅という形で決着したため、幕政改革自体は行なわれたものの、幕閣に外様大名が続々と参加する、ということにはならなかった。

軍役と参勤交代

譜代大名といっても、幕府の家臣であることは変わらない。外様大名などと同じように各種の義務があり、それが負担になることも多かった。
代表的なものが軍役である。石高に応じて幕府に武器や兵を提供し、有事に備える。特に江戸幕府が開かれた直後は豊臣家が健在で、いまだ戦乱の可能性が消えていなかった。大名の軍役は幕府が戦力を確保するにも重要な要素だったのだ。
特に譜代大名や旗本・御家人といった徳川家直属の家臣たちは幕府からの信頼が厚く、確実な戦力として計算されるのは当然であった。

「大坂の陣」以降、幕末まで武家同士の衝突による戦乱は起こっていない。軍役で提供された兵が実際に戦場に動員されることは、基本的になかった。「島原の乱」のような内乱はあったが、これもその地を治める大名の軍勢が幕府軍という名目で戦っただけだ。
ただし、軍役がなくなったわけではない。平時の軍役としては、江戸城門番や火番、江戸城内の警備、江戸城の修築や将軍の上洛の警護に人員や資金を提供することなどが課せられていた(ちなみに、将軍の上洛は江戸時代の初頭、3代将軍・家光のときを最後に行なわれなくなっている)。

また、諸大名が果たさなければならない義務として最も有名なのは参勤交代だろう。これは大名が一年交代で地元と江戸を往復するというもので、関連して妻子を江戸に住まわせることも強制された。この参勤交代も軍役の一環である。
1615年(元和元年)、幕府は『武家諸法度』を発布して大名の統率を図る。その主な内容は、居城新築の禁止と修築の制限、徒党の禁止、私婚の禁上、参勤交代の作法などについてだった。その後、1635年(寛永12年)に改定され、参勤交代が制度として確立している。

江戸と領地との移動では大名行列が組まれ、道中の宿泊費などを含めると莫大な出費が必要だった。これにより、幕府は諸大名の財政を圧迫して、国力を高めることを阻んだのだ。同時に、妻子を幕府の監視下にある江戸に住まわせ、人質同然の状態にして幕府への反乱を起こさせないようにした。
江戸から地方へ向かう街道には関所が設けられ、「入鉄砲と出女」という言葉が生まれるほどのきびしい取り締まりがあったとされる。入鉄砲は江戸に鉄砲が持ち込まれて治安が悪化するのを警戒すること。そして、出女とは大名の妻が身分を隠して江戸から出ていくのを防ぐことだった。それほど幕府は大名の統制に神経をつかったのである。

参勤交代のうち、江戸と領地との往復は当初、外様大名にだけ課せられていたが、1642年(寛永19年)から譜代大名も対象となった。基本は一年ずつだったが、関東の譜代大名については半年ごととされている。また、老中や遠国奉行などの要職に就いている間や、水戸藩のように江戸にいることが義務づけられていた場合は、参勤交代は免除された。

なお、これにはさらに例外的な措置もある。大名の領地によっては地方特有の任務が課せられ、領地を空けることができない場合があったからだ。
たとえば佐賀、福岡には幕府の直轄地・長崎の警備が任せられていた。この重任から、両家の参勤交代は交互に行なうことが認められた。常にどちらかの大名が領地にいるように調整し、役目に支障が出ないようにされたのである。ちなみに、同じように特別な役目を持つ家は他にもある。高田、桑名には女手形(女性が関所を通るための手形)の取り扱い、膳所には交通の要衝である瀬田橋の警備、大和郡山などの畿内四藩には京都火消役という役目がそれぞれついて回った。

また、朝鮮外交を担った対馬藩や、アイヌを統括しロシアと接することになる松前藩は、それぞれ3年ごと、6年ごとに1年、江戸にいればよかった。領地で朝鮮や北方外交に注力することのほうが重要とされたからである。

江戸時代後期の諸改革や幕末の混乱は、この参勤交代制度にも影響を与えている。徳川吉宗の「享保の改革」では1722年(享保7年)、在府半年・在国1年半と江戸にいなければいけない期間が短縮されている(のちに元へ戻されている)し、幕末の1862年(文久2年)には「3年に1年または100日の在府、妻子も在府・在国どちらでも自由」と大幅に緩和されているのだ。

次回「(4)出世と譜代大名」につづきます。
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