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5.譜代大名の出世頭「老中」

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老中になるための条件

譜代大名の出世の最高到達点は、やはり老中である。幕政の中心を担い、権力も名誉も手に入れられる。さらに元禄期ごろまでは、老中になると加増されることも多く、譜代大名にとっては出世コースの「上がり」に相当する役職だった。
この項では老中になるための条件を、『国史大辞典』から紹介してみよう。

当然のことながら、譜代大名であることが絶対条件だった。さらに石高が3万石以上12万石以下(老中になるべき人材が石高不足の場合、加増して3万石に届かせることもあった)であり、領地内に居城を持つ「城主」でなければならない。
また、親藩や家門など、徳川一門からは選出されず、宿老とされる譜代大名の中でも、とりわけ有力な家からも老中が任命されることはほとんどなかった。
一方、領地が九州にある譜代大名は、3万石を超えていても老中にはなれなかった。九州は鎖国体制の中で唯一開放された長崎があり、国防の観点から藩主が江戸城に詰めてしまうことはできなかったからである(幕末期には肥前国唐津藩世子の小笠原長行が老中になる例外もあった)。
このように領地のせいで出世に差し障ることがあるケースとしてよく知られているのが肥前国唐津藩だ。この藩には、長崎見廻役という特別な任務があった。このため、唐津藩主は国をいつまでも留守にしておくわけにはいかず、幕府の要職に就くことができなかった。「天保の改革」を進めた水野忠邦は老中になるため、手を尽くして遠江国浜松藩への転封をしてもらっている。
ちなみに唐津藩と浜松藩の石高はどちらも6万石だが、特命がある分、唐津藩のほうには幕府から援助があり、実質20万石近い収入があった。こういった例は他にもあり、表面上の石高と実際の石高の違いから、うまく財を蓄えた大名もいたようである。

幕末には、1836年(天保7年)の脇坂安董が外様大名でありながら老中に任命されている。これは「願譜代(外様大名などが譜代大名を希望すること。認められれば、譜代大名と同様の扱いを受けた)」として譜代大名と同様に扱った特殊な例だ。

もちろん、何もせずに出世できるほど世の中甘くない。平たくいえば、賄賂が必要だったのだ。
武家社会は身分社会であり、上に立つ者の言うことは絶対だ。権力者に取り入っておけば、なにごともうまくいく。幕閣の役職も思いのままだ。また、当時の武士が持っていた価値観として、何か頼むときに贈り物をするのは当たり前で、それを「賄賂だ!」とあまり目くじらたてるのは一般的な概念ではなかったらしいことは付記しておく。
特に田沼意次が実権を握っていた田沼時代は賄賂が横行した、という。

また水野忠邦は同族の老中・水野忠成を頼りに寺社奉行兼務、大坂城代、京都所司代、西の丸老中と、出世コースをまっしぐらに突き進んだが、確実に本丸老中となるため、水野忠成に徹底的にお金をつぎ込んだ。唐津藩のときの財政的特権は、このときすでに失われていたはずだから、ずいぶんな負担だったろうが、おかまいなしだったのである。
屋敷に招いて宴席を持てば50から100両、隔月に進呈した物品は20両から50両、多いときは、やはり100両。とにかく出費をいとわずに払い続け、念願の本丸老中の座を射止めたのである。
昇進のためでなくても、多少の出費は必要だった。上の立場にいる大名にあいさつ(つまりは進物)を欠かせば、今度はにらまれてしよう。降格や解職につながりかねないのだ。もちろん、量も質も、それ相応のものを用意しなければならない。
大名にとって、出世はただではなかったのである。

そもそも老中とは?

老中は3代将軍・家光の頃までは「御年寄」(将軍が呼ぶ場合は、「御」はつかない)と呼ばれていた。「年寄」とは「老」のこと。古来より集団の長は長老、つまり最も年かさの人間が務めてきた。「老」には長という意味が含まれているのである。大名家の家臣の頂点が「家老」なのもこのためだ。また、「宿老」「老臣」など、家臣の中でもとりわけ重要視される人々は「老」の字を使って言い表される。
老中は複数いる。「年寄」の集まりということで「御年寄衆」と呼ばれ、集団を表わす敬称の「中」が用いられて「老中」となったのだ。
なお、大奥の女中の最高位も「御年寄」であり、こちらは「老女」と呼ばれていた。

老中は午前10時から11時頃に江戸城に出仕した。「御用部屋」という執務室が与えられており、そこに老中全員が集まってから執務が始まる。執務は個々に行ない、必要ならば若年寄や奉行など、他の役人を呼びつけることもあった。
執務が一段落したら昼食をとる。その後は「廻り」といって、各役人の部屋を見て回ることになっていた。このときに限らず、老中が江戸城内を歩くときは先導が声を上げ、老中の存在を知らせていた。他の役人は老中が通りがかれば、そこに居並んで必ずあいさつをした。老中の権威を物語る逸話である。

老中には若年寄とともに、幕閣の人選を行なう役目があった。実際の任命は将軍が行なうが、候補を上げるのは老中と若年寄で、たいていの場合、将軍が異論をはさむことはなかった。つまり、老中は幕府の人事権を握っていたのである。
老中が人選するのは、従五位下の官位を得ている「諸太夫」以上の役職だ。遠国奉行(京都、大坂、長崎、奈良、堺、駿府などの江戸から離れた要所を押さえる奉行)、三奉行(寺社奉行、町奉行、勘定奉行)、下三奉行(作事奉行、普請奉行、小普請奉行)、大目付(大名を統括する役職)、大番頭、小姓組番頭、書院番頭(いずれも将軍直属の常備軍の筆頭)など、いずれも幕府の要職である。
この他、譜代・外様を問わず、大名に関することがらは老中が担当していた。諸大名から幕府への申し立ても、幕府から諸大名への通達も、必ず老中を通す。また、大名同士のいさかいの調停も老中が行なった。

老中の補佐についたのは奥右筆という役人である。彼らは秘書と書記を兼ねるような役職で、幕府の内情に通じており、過去の判例にも詳しかったため、老中の執務にはなくてはならない存在だった。
また、毎月2のつく日(2日、12日、22日)は評定所で老中、大目付、三奉行が一堂に会し、裁判を行なっている。これも老中の務めのひとつだった。
老中が将軍の命令を大名たちに伝える際に作成する文書を「老中奉書」という。一般的には連署形式で、老中全員の判が押されていた

老中の事情、いろいろ

老中は他の幕閣と比べて、細かな待遇面で優遇されていた。
まず、「下部屋」という個室が与えられ、休憩や着替えに使うことができた。執務に使う御用部屋は広く、冬場には個人ごとに脇に火鉢が置かれ、部屋全体を温める「御間あぶり」という大きな火鉢もあったという。さらに、江戸城内では徳川家以外の人間が座布団を使うことが禁じられていたが、老中の座る畳の下にはパンヤ(綿状の草)が敷かれていた。

待遇面以外にも特権は多い。老中は大名に関することがらを取り仕切るため、大名と会うことが多かった。大名は登城の際、将軍にさまざまなものを献上する。老中にはその「あまり」が渡されることになっていた。
諸大名との上下関係でも、老中は特権的な立場にあった。老中は3万石以上の譜代大名から選任されるが、これを上回る石高の大名は大勢いる。しかし、諸大名と老中が道で出会ったときは大名のほうが道をゆずり、老中は大名に対して「その方」呼ばわりして命令することができた。たとえ小大名であっても、将軍から老中に任命されたということで、将軍の権威を背負っていたのだ。御三家や御三卿でも老中には会釈するほどだった。
官位の面では、老中は従四位下侍従に当たる。御三家に次ぐ家格を有する国持大名と同じで、一般の大名が従五位下であることを考えると、それだけで上位に立つことになる。

大名が官位を高めようとした場合、10万石以上の五位の大名が30年の間大名の地位を勤め上げることで、ようやく従四位下となる。このとき、官職は変わらないので、まだ老中には及ばない(侍従にはなれない)。老中になれば、これほど諸大名が苦労する官位を、それだけで手にすることができるのである。

また、老中はお金になる役職でもあったようだ。江戸時代は、折にふれて役人の間に賄賂が横行することがあった。田沼意次が実権を握った田沼時代や、11代将軍・家斉が治めた大御所時代などがそれに当たる。
老中は幕閣の最高責任者であり、最高権力者である。その座を手に入れようと、多額の金銭が使われたという話は尽きない。田沼意次が失脚した直後に老中に任命された阿部正倫は1万両もの賄賂をばらまいたといわれている。
それだけのお金を使っても、自分が老中になれば、次の者から賄賂が流れてくる。たとえ1万両でも回収し、さらに利益を上げることもできる。そんな計算もあったようだ。
ところが、正倫が老中になったとき、老中首座には松平定信が就き、質素倹約と清廉さを打ち出した寛政の改革を断行した。定信は賄賂をいっさい受け取らず、周りにも許さなかったため、正倫の懐が潤うはずもなかった。
いくら役得と言っても、常にその恩恵に欲するわけではなかったようだ。

また、老中には本丸老中と西の丸老中という2つの役職がある。
本丸老中は将軍つきで、幕政を実際に動かしている。西の丸老中は大御所(前将軍)や世子(次期将軍)つきで、西の丸に関する執務を行なった。西の丸が使われていないときは、西の丸老中も置かれなかった。
両者の格は、本丸老中のほうが上になる。西の丸老中から本丸老中になることは昇進だった。やはり、幕政の中心は本丸老中だったのだ。
なお、西の丸老中に任命される者も、本丸老中と同じく、3万石以上の譜代大名に限られていた。

次回「(6)譜代大名の懐事情」につづきます。
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