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6.譜代大名の懐事情

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譜代大名の苦労

江戸時代の大名たちはその煌びやかなイメージとは裏腹に、数々の問題を抱えていた。それは譜代大名も変わらない。

常に彼らの頭を悩ませたのは財政危機だ。収入の大部分は領地からの年貢と、幕府からの俸禄である。対して、出費はさまざまな方面にわたり、額もかなりのものだった。幕末を迎える頃にはどの家の財政も火の車で、借金漬けだったようだ。
しかも、収入源は米であるため、毎年同じように手に入るとは限らない。江戸時代には火山の噴火や日照り、洪水などの天災や、イナゴの大発生による虫害などで飢饉が発生することがたびたびあった。ときには疫病が蔓延し、稲の作り手である農民に被害が出てしまうこともあったのだ。
そうなると大名は収入が減るだけでなく、領民が飢えて治世が混乱してしまう。田畑を捨てる者が現われたり、大規模な一揆が起きたりすれば、その対策にまたお金がかかってしまった。中には領地の特産品を売ったり、漁業や林業、鉱山開発を行なったり、貿易で利益を上げたりと、さまざまな形で増収を図った大名もいるのだが、やはり稲作=農業に大部分を依存していることは変えられなかった。

もうひとつ、家臣団の扱いにも苦労した。
譜代大名も一国一城の主である以上、多くの家臣を抱えている。主君として、彼らの生活を支えてやらなければならない。それができなければ家臣は自分のもとを離れ、家の力は弱まってしまう。
また、家臣が実績を上げたら、きちんと評価する必要がある。俸禄を上げるということだ。しかし、先に述べた通り、大名の懐事情はどこもかしこもきびしいものだった。身の丈に合った家臣の登用をしないと、財政はあっさり破綻してしまうのだ。
古くは「関ヶ原の戦い」で西軍についた上杉家の例がある。120万石あった所領を4分の1の30万石まで減らされながら、家臣団をそのまま手元に残した。家臣を思ってのことか、単に家の面目を保とうとしただけなのか定かではないが、結果として財政は行き詰まり、莫大な借金地獄にあえぐこととなる。

江戸時代、家臣に与えられる報賞は土地だった。だが、土地は増えるものではない。開拓して農地にすることはできても、その労力は莫大なものだ。1万石、2万石を一気にまかなえるような開拓は不可能である。
江戸幕府ができたばかりの頃、幕府は諸大名の功績に合わせて景気よく石高を加増していた。しかし、時代が進むにつれてそうした動きは見られなくなっていく。与える土地がなくなってしまったからだ。
大名と家臣の関係にしても、同じことがいえる。封建制の社会がいつか行き詰まることは、残念ながら最初から決まっていたというほかない。

大名とお金

大名を悩ませた財政問題はまだまだある。大名にまつわる代表的な出費の例としては、まず参勤交代だろう。
江戸と自分の領地との往復を義務づける参勤交代制度は、すべての大名にとって頭の痛い問題だった。譜代大名も例外ではない。個人が移動すればすむ現代の出張とは違って、当時は大名の権威を知らしめるために大行列を組まなければならなかった。多ければ1000人以上にもなり、単純に旅費がその人数分だけかかるのだから、出費はかなりのものだった。
中には途中で旅費が尽き、工面できるまでその地に滞在したという大名もいる。出羽国鶴岡藩を治めていた酒井忠徳は、江戸から領地まで戻る際に途中の福島までの旅費しか用意することができず、恥ずかしさのあまりに落涙したという。酒井家は「徳川四天王」と称された家康の腹心・酒井忠次の血を引く名門中の名門だった。しかし、貧しさの前には家名の威光もあえなく力を失ったのだ。
他にも、恥を忍びながらも行列を作らず、徒歩で移動して財政負担を軽くした涙ぐましい例もあったようだ。一方で、大規模な大名行列が通過・滞在すれば宿代などの形で地元にお金が落ちたため、その経済効果で潤った藩もあったという。

そんな中、譜代大名は江戸を守るため、関東近郊に領地を持っている場合が多い。図抜けた大大名も基本的にいないので、権威を守るために派手な行列を仕立てる必要も少なかったはずで、その意味での経済負担はそれほどではなかっただろう。ゆえに、外様大名に比べれば参勤交代の負担は幾分かましだったといえる。中には老中など幕府の要職を務めて、参勤交代を免除された家もあった。

また、大名には有事の際、幕府に武器や兵力を差し出す軍役が課せられていた。
同時に、城の修繕や治水などの土木工事に費用や資材、人足を差し出すことも義務づけられていた。これが御手伝普請である。
御手伝普請は当初、任命された大名が全責任を負っていたのだが、あまりに過酷なため、やがて幕府が取り仕切るようになった。しかし、費用は変わらず大名持ちだったため、財政への負担という面では変わらない。

御手伝普請でなくても、領地の運営には治水や街道の整備、城郭の補修などをする必要がある。もちろん、これも大名が自分で負担しなければならない。
江戸時代は、地震や火山の噴火などで建物に被害が出ることも少なくなかった。用水路や堤防が破壊されれば、連鎖的に被害が拡大する。しかし、修繕するにはお金がかかる。
そうなると、お金のある豪商などから借りるしか手立てがなくなり、立場的にも弱くなってしまうのだった。

加えて、ただ暮らすだけでもお金はかかる。
たとえば、大名は参勤交代などに対応するため、領地だけでなく江戸にも屋敷を設けなければならなかった。それも、大名や家族が使う上屋敷、先代の藩主や後継ぎが使う中屋敷、別荘などの下屋敷がそれぞれ必要だったのである。屋敷が大火で焼失し、新しく作り直さなければならないような泣くに泣けないこともあった。木と紙で形作られた江戸の町は、火事が非常に多く、「火事と喧嘩は江戸の華」などと呼ばれたほどである。

そもそも、江戸の町は物価が高い。これは今も東京の物価が地方と比べて高いのと一緒で、生産より消費のほうが多い大都市なら自然のことだ。大名たちからすれば、この物価の高さは、江戸に拠点を置き、自分や家族が暮らしたり家臣たちを住まわせる費用ヘダイレクトに跳ね返ってくるわけで、なかなか厳しいものがあったろう。
こうした日常的な出費も、数え上げれば大きな額になっていたのだ。

大名が最も恐れたのは減封や改易だ。減封は領地の削減、改易は武士身分の取り上げと領地の召し上げ、すなわち取り潰しのことである。
どちらも幕府の権威を大名に知らしめるには有効な手段だったため、特に江戸時代初期にはよく行なわれた。「関ヶ原の戦い」で東軍の先鋒まで務めた安芸国広島藩の福島正則が、災害で壊れた居城の広島城の石垣を幕府に無断で修理しただけで改易されたことは、よく知られている。
改易までいかなくても、減封されれば財政はすぐに逼迫する。幕府ににらまれないようにすることは、大名にとって死活問題でもあったのだ。

次回「(7)寵臣の出世と末路」につづきます。
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