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明智光秀とお岸ーーあるいは史料と伝説の向こうの家族

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明智光秀は生涯側室を持たなかったとされる。そのため、彼の子供は正室の煕子との間に生まれたものだけ……のはずなのだが、なにしろ伝説が多く、信ぴょう性の高い史料も少ない人だから、子供が何人生まれたのか、その後どうなったのか、よくわからない部分が大きい。ドラマの方で長女が生まれたこともあるし、ちょっと光秀の子供たちを追いかけてみよう。

まず、何人いたのか。『明智軍記』は3男4女と記すが、史料的に信じられるのは3男3女とされる。嫡男の光慶(通称は「十五郎」とされてきたが父と同じ「十兵衛」が正しい模様)、自然丸、さらに末弟と男は3人だ。
娘3人のうち、細川家に嫁入りした「玉(たま)」ことガラシャはあまりにも有名だし、後日あらためて紹介するつもりなのでここで詳しくは触れないが、光秀の血を後世に伝えていく重要な人物である。
またもう1人、津田信澄の妻になった娘がいることがわかっている。信澄は信長の甥(信長に殺された弟・信勝の子)で、織田家臣として活躍したが、「本能寺の変」においては光秀と行動を共にしていなかったにもかかわらず共謀を疑われ、同僚に殺されてしまった。

そして、ドラマではこの20回で誕生し、「お岸」と名付けられた長女はどうなったか。以前紹介した光秀の重臣・明智秀満(光春)の妻になったとされる。
元々は織田家中において光秀と関係が深かった同僚、荒木村重の嫡男・荒木村次のもとへ嫁入りしていたのだが、村重は信長に反旗を翻してしまった。村次はこの際に彼女を離縁し、光秀のもとへ戻したので、光秀は改めて己の重臣である秀満と娘を結婚させた、という経緯だ。なお、村次は父ともども逃げ延び、のちに羽柴秀吉に仕えている。

この他、側室の子・於隺丸がいて生き延び、近年多数の著作を刊行する明智憲三郎の先祖になったとか、タレントのクリス・ペプラーの母方の家系である土岐家を遡ると土岐頼勝という人物がいて、この人は光秀の実子であると言われているとか、そのような噂、伝説は数多くある。なんと、あの坂本龍馬も、じつは光秀の子孫だった……という話があるのをご存知だろうか。しかしそれらは基本的に史料的な裏付けに乏しく、後世の創作以上のものではないと考えられる。

 

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